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村上龍の提言
大江健三郎、司馬遼太郎、池澤夏樹など、以前は文学屋が社会に積極的に提言していたが、最近はあまり聞かないな、と思っていた。文学屋はもっともっと社会に物申すべきで、彼らにしかわからないことがあるわけで、社会に何か言うのは、それで飯を食わせてもらっている文学屋の義務ではないかと思っていたら、今日の日経新聞の「経済教室」に村上龍が「希望再興へビジョンを描け」というタイトルで提言していた。

ポイントは以下の3点だ。
・世界的な信用収縮に対する、政府、マスメディアなどの危機意識のズレ
・社会各層で利害対立が起こり、不信の連鎖、悪循環が起こっている
・高度成長で失われたものの再構築が必要

たとえば政府の予算案でも現実とのズレは顕著だ。あまりに危機意識が無さ過ぎるし、金だけばら撒いて急場しのぎをやったとてそれに何の意味があるのだろう。この危機に対応するにはもっと先を見据えた抜本的な対応が必要だろう、と僕も思う。

サブプライムローン問題が発生する以前から、日本社会は各層、各組織相互の信頼が失われつつあって、今回の経済危機でさらに鮮明に表面化した。与党と野党、与党内の各グループ、官僚と政治家、内閣と議会、経営と労働、正規社員と非正規社員、富裕層と中間層と貧困層、自治体と中央政府、老年層と若年層、そして国民と国家、様々な利害の対立が顕在化し、不信の連鎖が起こり厄介な悪循環始まっているように思える。


各層ごとに乖離が顕著化しさらにそれが対立していって悪循環に陥る、という昨今のぎすぎすした様相がくっきりと整理されていてわかりやすい。たしかに各層で考えていることや方向性が全く違うのだ。これは話がしにくい社会である。僕のように同じ文学をやっていても何か違う、と感じざるをえない。あまり今、文学屋は社会に関心がないのではないか、といぶかる。自分の文学さえ探求できればそれで事足りているのだろうか。それとも今の社会に対して何を言っても始まらない、とあきらめているのだろうか。

これらすでに始まっている悪循環への対抗策として村上龍は二つの方法を提示している。一つは

短期的な対応で、信頼を回復させるための複数の対立項を結ぶ情報の開示と正確な現状認識、つまりアナウンスメントである。


もう一つは

中長期的には、悪循環が始まっているシステムと考え方から離れ、新しい別のシステムを築くことである。


これだけでは、文学屋らしくなんだか漠然としてわからないが、アナウンスメントに関しては、この危機に対する、昨今のマスメディアの対応の場当たり的な対応のことを言っている。その中心は派遣切りで、メディアは彼らの困窮をできるだけ細密に描くことに腐心していて、経営者側からの視点の介在を許さない。

契約を切られる労働者側からの報道が間違っているというわけではない。だが、急激な販売減、需要減で赤字になった輸出企業が雇用をそのまま維持すればどうなるかという経営者側の状況はほとんど知らされない。
需要変動時に雇用調整を行うのは、経営者の恣意的な行動ではなく資本主義に組み込まれたシステムだから企業・経営側を悪役にすればそれで解決するというものではない。個別企業の対応ではなく、セーフティーネットなどの社会システムの見直しが求められる。
さらに、経営を悪役とする労働側に沿った報道は、経営と労働、非正規労働者と正規労働者間の対立と不信を増幅させる。マスメディアに求められるのは、各層、各組織間の信頼を醸成するための、客観的な情報と提示と事実のアナウンスメントである。被害者意識を煽り、問題を矮小化してドラマチックに報道することで、不信の連鎖とシステムの機能不全が引き起こす悪循環が、逆に隠蔽される。


とマスメディアの一方的な報道姿勢を責め、また庇護もする。

もちろんマスメディアに悪意があるわけではないし、怠慢なわけでもない。資本家を強欲な悪役と見なす近代化途上、高度成長期の文脈以外での報道ができないだけだ。


これこそぼくがずっと言い続けてきたことに見事に同期する。ああ、おんなじこというなぁ、と妙に感動したが。しかし他人にあらためて言われると、本当にそうだろうか、と逆にいぶかしく思ったりする。

「複数の対立項を結ぶ情報の開示と正確な現状認識、つまりアナウンスメント」

が本当になされれば、絶望だけが渦巻くかもしれない。たとえば環境問題に対して、もっと掘り進めて行けば、ヒューマニズムが傷つくことは避けられない。なぜならこれ以上人間が増えていけば人類ががどんな対応をしようが、環境は悪化する一方だからだ。戦争や災害で人が大量に死ねば、「これで地球環境は少し良くなったでしょうね」とは口が裂けてもメディアは言えない。それと同じで、「派遣切りは今の経営環境から考えればこれは仕方のないことです」なんていうヒューマニズムに反することはやはり言えないのである。言っちゃぁお仕舞いなのである。それは村上の言うとおり未だに「近代化途上、高度成長期の文脈以外での報道ができない」のである。これができるようになるほうがやはり恐ろしい、と思わざるをえない。時代は近代で止まったままでこのまま行くのだろう。近代の向こうへはそう簡単には行けそうにない。そして現状認識との乖離がまた各層間の乖離に結びつくのかもしれない。

そして村上は、希望を発生させる中長期ビジョンとして、「環境」と「家族、世間などの親密で小規模な共同体の復活」の重要性を挙げることで締めくくっている。

個人的には「小規模な共同体の復活」というのは難しいように思うのだが、「環境」は意外に資本主義に乗ってしまえば簡単なような気が最近してきている。太陽光発電は想像以上に有効らしい。僕個人はここにまさに太陽のような希望を感じるのだ。これさえ何とかなれば人々は「絶望」という重しから久しぶりに解放されるのではないだろうか、と。
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コメント
この記事へのコメント
引き返せない
細見大兄 こんにちは。
僕がどうやっても楽観的になれな
い問題、それが人口です・・・
ほかの事はいつでも何か打開でき
ると思うのですが、ヒトは賢者た
るクジラのように引き返せない。
考えるのをやめてしまう場所のひ
とつです。
2009/01/07(水) 18:04:46 | URL | 渡部光一郎 #kyNrcoxs[ 編集]
光一郎さん、どうもお久しぶりです。

ですね。人口です、確かに問題は。このことを思っていると確かに考えることを止めてしまいます。考えようという気力が萎えるのです。

まぁ、でも地球の定員は100億だと言われています。そこまでは楽観していようかな、と思っているのですが。でないと先に進む気がしなくなるもので。
2009/01/07(水) 23:20:53 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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