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二つの「あかるさ」
笹井宏之をわかっているか、と聞かれたら、いややっぱりわからない、と言うより他にない。だからここでは精一杯自分のわかる範囲でその魅力を述べたい。

以前、自分のブログでいろいろと述べた。↓
笹井宏之歌集『ひとさらい』
一行の詩のような人

確かに漠然とした物言いかもしれない。しかし中でも穂村弘の言う「あらゆるものが等価にある感覚」には考えさせられる。笹井の前ではあらゆるもの、つまりあらゆる人間あらゆる生物あらゆる有機物あらゆる無機物あらゆる目に見えるもの耳に聞こえるもの心に感じられるもの、それらが等価だということになる。このことは、人間だけが平等である、つまり裏を返せば人間以外何の権利もない、という近代の原理を信じて疑わない人には理解しがたいことかもしれない。近代は起伏のあることを好む。泣いたり笑ったり幸せだったり不幸せだったりすることを好む。笹井はそういった起伏のあることからは自由だ。

あるいは前向きでも後ろ向きでもない姿勢。これは僕が言ったことだが、穂村弘の言うのと確かに似ている。これもフラットな世界だ。喜びも悲しみもない、期待も落胆もない。

・ それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
笹井宏之「ひとさらい」

従来の「あかるさ」には、人間や人間が見る事物に陽光が降り注ぎ、これからの未来が前向きになれる、そんな意味が必ず内包されている。そのことを我々は、あかるい、と呼ぶのだ。しかしこの歌における「あかるさ」はまた別種のように思える。はっきり違う意味と言っていいかもしれない。「世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどの」あかるさとは、従来のあかるさと逆方向を向いている。なぜなら従来のあかるさならデッキチェアを全部開くだろうから。全部閉じるということは逆方向を向いていることに他ならない。逆方向を向かすことによって、従来のあかるさを打ち消してしまう効果がここにはある。そしてその時フラットな世界が現出されるだろう。喜びも悲しみもない、期待も落胆もない、前向きでも後ろ向きでもない「あかるさ」である。ではそれはどういう「あかるさ」だろうか。それはそういったことが何もないフラットであるが故の「あかるさ」ではないだろうか。フラットであるがゆえにあかるいのである。何も無いがゆえにあかるいのである。そのことの発見がこの歌にはある。そしてこの「あかるさ」とは従来の「あかるさ」とは別の意味になるだろう。

真の詩人とは、このように言葉そのものさえも本来の意味からずらすことのできる力量のある人のことではないだろうか。

それと笹井や永井祐に見える共通点として、やはりこのフラットさがある。これは近代的な起伏の激しさに対する無意識の反感かもしれない。フラットで何も無いがゆえに彼らは安心するのかもしれない。これがいいことか悪いことかは別にして。
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