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片付けない人たち
今日の日経新聞の裏面エッセーは詩人の小池昌代さんの「混沌キッチン」。読んでみて、うちと同じだー、と思わずうなずいてしまった。

お気に入りの冬用パジャマを何年も着古すと、家人から、そういうものは思い切って捨て、さっさと買い換えていくものだ、と諭される。小池さんにとって世の中の時間の流れと自身の時間の流れにかなりのずれがあり、ついていけないのだそうだ。僕もこれとは多少ニュアンスは違うが、片付け魔の家人にはついていけない。激しくズレを感じる。

 確かに物は捨てないと、片付かないと昔から言われている。文句はない。スッキリ生きましょう。わたしも常々努力していることだ。


と投げやりな同意を示し、ご自身の母のことへと話題は移る。

 頭にいま、うかんでいるのは、実家の混沌とした台所のことだ。
老いた両親が暮らしている。これが、片付けようにも、どこから手をつけたらよいのか、わからないのだ。
 築50年。古い上に暗く、ごちゃごちゃとして、なかに何が入っているのだかわからないビニール袋がたくさんあり、あけてみれば、乾物だったり、単なるごみだったり。母の視力も衰えたので、あらゆる物の上に、うっすらと埃が。
 迷宮である。
 台所という場所は、たとえ親子でも領域侵犯になる。母は捨てない。だからこうなる。しかし母は、今でもこの迷宮から、おいしい料理やお菓子を作り出している。食べても、腹を壊すということもない。


一緒だなー、と感心した。うちの母も以前このブログに書いたが(参照)、捨てない人なのだ。なんでも置いていて、そこらじゅうに要るものとごみとが判別なくごちゃっとあるのである。それでこちらは慣れているので、ホッとするわけで、家人に変に片付けられると、かえって殺伐とした気分になったりもする。

しかし、上には上がある。小池さんの文章の続き。

 わたしが子供だった頃、友達の家の台所が、輪を三重にかけるぐらいにすごかった。
 テーブルの上には、常に何かの食べさしがあり、虫の死骸がころがっていたり、醤油や酢のびんが立ち並び、いたるところ、物があふれて、充満していた。
 いったいどこに皿をおいたらいいのさ!というテーブルを前にして、友達のおかあさんは、いつも、にこやかにわたしたちを歓迎してくれた。妖怪としか、思えなかった。
 あの場所の濃密な空気感は、決して忘れられるものではない。来るものは拒まず、何でもためこむ。ひたすら増殖していく台所のイメージは、今もわたしの中心にある。
 そこからは、湯気がもうもうと沸きあがり、実においしそうな匂いがするが、同時に何かがどこかで腐っている、非常に危ない匂いもする。


これはさすがに違う、と思った、ここまではいくらうちの母でもしない。絶対に。これを読んで思い出したのは昔読んだ、ソルジェニーツィンの「マトリョーナの家」という小説だ。一人住まいの老婆マトリョーナはとにかく来るもの拒まずの人で、家の中はごっちゃごちゃで、ゴキブリの天国と化していて、そのゴキブリの大群とにこやかに暮らしているのである。この小説を読んだとき、なぜか涙をぼろぼろ流したのを覚えている。どこに感動したのか、今となっては思い出せないのだが、きっと自分と近い何かを感じたのだろう。しかしこの友達の家はもう一歩進むと世間で時々問題になる「ごみ屋敷」になるわけで、さすがにこれは危ない。とは思うが、なんだかわかるのである。

 わたしはおそらくあの混沌の中に着床し、その混沌がつくる、汚れと穢れのなかから、生まれ出でてきた。そうでなければ、こんなに懐かしく思うわけはない。


そして小池昌代さんはこの神話的台所を目指して、これからインド東部に出かけるそうだ。

結局、どんなに文明が進化しても、便利になっても、台所はいつだって台所でしかなく、きっとそこに神話時代と変わらない普遍の要素があるはずだ。そして混沌であればあるほど普遍的要素が顕現してきて、台所全体が神話時代に近くなってゆく。だからこそ「混沌キッチン」は懐かしく感じられるのかもしれない。そんな気がした。
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