卵と壁
なぜ僕が反戦思想などの単純な平和思想にしらけたりするのか、考えてみたんだけど、たとえば旧日本軍が絶対に悪い、というところで落ち着いてしまって、そこで思考停止状態になるわけで、本当にそれでいいのか、という気分にさせられるからかな、とふと思った。結局、責任を全部そこに押し付けてしまい、他は考えない、というところにかなりいらいらきているところがあるようなのだ。戦争には様々な要因があるわけで、たとえばあの太平洋戦争にしても、本当の戦争執行者は旧日本軍でもましてや天皇でもなく、それをバックで支えていた、我々日本人そのものなのではないか、という思いが強い。うがった見方をすれば、彼ら反戦思想家は、あの戦争は自分の責任ではないと思いたいだけで、責任からの逃避ではないか、という気すらしてくる。旧日本軍のせいにすれば自分たちには絶対に責任がないわけである。日清日露と勝ち進んだ当時の日本は行け行けどんどんで、日本人全体が、もう負ける気がしない、という神がかり的な状況になっていて、アメリカもやっつけてしまえ、という勢いが当時あったのではないか、という気がする。これはちょうどバブル崩壊前の、土地神話、つまり地価が下がるわけがない、という何の根拠もない信念と相共通するように思えるのだ。盲目的な反戦思想は、戦争前の標準的な日本人のその単純な思いのちょうど裏返しのようで、同じように右へ(いや左に)倣えで、なんだか気持ち悪かったりする。
そんなことより、これが正義でこれが絶対悪だ、と決め付けることにとても嫌なものを感じるのかもしれない。決め付けてしまうとそこでもう思考停止状態になるからだろう。差別というものは、必ずこの単純な決め付けから生じてくるのだから。

でもまぁ、右翼的な思想に比べたら100倍ましなんだけどね。



村上春樹はエルサレムでのスピーチで、

Yes, no matter how right the wall may be and how wrong the egg, I will stand with the egg.(ええ、どんなに「壁」が正しく、どんなに「卵」が間違っていようとも、僕は「卵」のそばに居続けます。)


と言ったけど、これがあるからぼくは村上春樹を信じようと思った。もしこの一説が無ければ、あとがどんなに立派でもそれはとても空虚に響いただろうし、単なる安っぽい左翼でしかないわけで。何が正しくて何が間違っているかが問題ではないのだ、とにかく僕は卵の側に立つと。システムではなく個人の側に立つと。そう宣言することが文学にとって、とても重要なことなのだと。パレスチナ問題の当事者ではない日本人が、この問題に言及する権利があるのか、という懸念もこの一説で、僕の中では吹っ飛んでいた。外部の人間だから、普遍的な真理へと高めることができたのだろうし。だれもがシステムの一員になる可能性のある、そういう意味で、卵と壁、つまり個人とシステムをはっきり分けたというところ、にも感銘した。つまり卵はいつだって集まれば壁に変身するのだ、ということ。その上で卵の側に立つのだ、ということを、そこを確認するということは、卵の側は何があろうが絶対正しいのだと、ただ闇雲に卵の側に立っていれば気の済む反戦論者とは決定的に違うはずだ。

なぜ戦争が起こるのかを真剣に考えることは、卵の側だけでなく、壁の側に立つことでもあるはずだ。壁の側に立ってはじめて、卵が何なのかが見えてくることがあるわけで、卵が集まって暴走していることも、壁の側からはじめてわかるわけだし。結局あの太平洋戦争は、卵が集まって壁になって暴走して起こったことだと、つまり戦争を起こしたのは我々なのだと、そのことをまず認識することからしか、真の反戦思想はありえないのだろうと思う。敵は自分たちの中にこそあるのだから。
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