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田中庸介氏の書評について①
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、波紋を投げかけているが、詩の素人ながらぼくも間に少し割って入ろうと思う。短歌のことでもあるし。同意もあるけど、もちろん反論もあることだし。

まず出だしの部分。

文化は真剣な遊びでいいんじゃないかと思う。「真剣」というのは、タマシイを賭けるということである。それによって自我が変容する、メタモルフォーゼする、といことである。そして「遊び」というのは、深刻にならないようにする、ということである。文学を第一義的に自己実現の道具にしようとすると、下手な大工が作ったふすまの敷居のように、遊びがなくなって、緊張でしゃっちょこばって不自由になってよくない。「真剣」と「遊び」。この二点を大切にするだけで、詩は間違いなく面白くなるだろう。


ここで言う「遊び」には二通りの意味が同時に書かれてあって、読み手としてはどっちを取るべきなのか迷う。

まず一つ目の意味は、深刻になるな、真剣に遊べ、という意味である。この意味なら即座に反論するだろう。深刻になって何が悪い、しかもこんなに社会が深刻な状況のときに、詩も当然深刻にならざるを得ない。ふざけるなっ、と一喝したい気持ちになる。

一方、二つ目の意味は、ふすまの敷居にある「遊び」のように、詩にもなかに少し余裕を持たしたほうが、詩が面白くなるのでは、という意味。この意味なら僕としては同意できる。やはりきちきちに余裕の無い詩は読んでて窮屈だ。

しかし、「深刻になるな」と「余裕を持て」は結局のところ同じところに行き着くのかもしれないが。

そして河津聖恵批判が始まる。

そもそも自動記述とは、言葉の意味から言葉の美しさへと向かうベクトルであったろう。自動記述においては、書く瞬間には言葉にしっかりした意味があるのに、その意味がぞろっと落ちてことばの美しさに遊ぶ瞬間に感動があった。しかし本作においては、そのような「うまくいった自動記述」へと一足飛びに作品を成立させようとしてあせるがために、意味がぞろっと落ちるのではなく、最初から意味が成立することを回避しているように見えてしまう。これは詩の不自由ではないか。


これは何か違うな、という印象を持った。河津さんの詩は、「最初から意味が成立することを回避しているように」は見えないからだ。逆にどこを読んでもどの言葉も同じ方向を向いていて、意味がきちきちに詰まっているように思える。もっともこれは僕が詩を知らないせいで持った印象かもしれないが。

一方で河津さんのブログの文章を読んだ。北爪満喜さんとの議論の中から結論のようなものが出てきたのだ。

詩のテラスより

先日私は「ひとは一つの詩とともに生まれてくる」という一行を書いたのですが、そのとき「ひと」「一つ」「詩」「生まれてくる」がそれぞれにまなざそうとするものが一致したのではないか、と。言葉がまなざす・・・それは、言葉が何か言いたげな顔をしている、ということのようです。この一行で中心は「ひと」あるいは「詩」だったと思うのですが、それがそれぞれ他の三つの言葉に「ほら見てごらん」と誘ったのだと考えることができます。もちろん、あとで読めば、何もみえていないかもしれませんが、そのときは言葉たちが一瞬そろって何かを見た、あるいは見ようと誘い合ったから、私はこのように書いたのではないか、と。


いっせいに言葉が同じ方向をまなざす、このとき詩が生まれるのでは、という素敵な詩論である。何かうっとりとしていまう。しかし僕は以下のように反論めいたことをコメント欄に書いた。しかも少しずれているような気もするのだけど。

僕個人の詩の好みから言うと、すべての言葉が一つの方向に向くとかえってわかりすぎてしらけてしまい、たとえば五つか十に一つぐらい全く違う方向を向いているほうが詩としては面白いのかも、と勝手なことを考えています。詩にハプニング性が出てきて、逆に言葉が生き生きとしてくるような気がするのですが。


そのあとの河津さんのコメントにあるように「真剣な一つのまなざしも詩のいいところ」はもちろんなのだが、ここに言う「ハプニング性」とはまさしく田中氏の言う「遊び」、つまり余裕、という意味での「遊び」なのか、とはたと気がついた。

しかし、そういった「ハプニング性」や「遊び」を詩に持ち込むことは、今の社会状況を詩に反映させるためには、やはり邪道であり卑怯なのかもしれない、とか思ったりする。結果として田中氏の言う二つの「遊び」の意味は同じ意味なのかもしれない。詩は深刻になったらだめになる、という意味において。しかし深刻な社会状況に「遊び」を持ち込むこともまた難しいようなのだ。

今の詩の状況で、今の社会状況を描ききることは無理なのか。詩の一端しかまだ知らないものとして、やはりもう少し詩に踏み込んでみようと思う。その価値は、その面白さは間違いなくあるのだし。

しかし田中氏や僕のようなこういった大雑把な意見は、所詮、河津さんの言われる「詩の内実には踏み込まない、詩の愛好家的批評」に過ぎないのかもしれないのだけど。

明日に続きます。
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