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田中庸介氏の書評について②
昨日の続きである。
現代詩手帖4月号の詩書合評欄で、野樹かずみさんと河津聖恵さんのコラボ集『christmas mountain わたしたちの路地』が、田中庸介氏によって取りあげられていて、それに対して野樹さんと河津さん共々ご自身のブログで反論されている。

河津聖恵さんが参加するブログ「詩のテラス」
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」①
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」②
野樹かずみさんのブログ「空ゆく雲の」③

作者ご自身なのでなかなか熱烈な反論だが、僕は第三者としてできる限り冷静に対応しようと思う。(冷静になっていられるかどうか自信はあまりないですが)

まずその問題の田中庸介氏の文章から人格批判ともとれる部分をそのまま引用する。昨日の田中氏の引用の最後の部分からつながる。

これは詩の不自由ではないか。そして、詩作品に「ファクチュアル」なフレーバーを加えるために現実の社会問題が利用されている印象さえもがある。このテキストの論理のなかでは、ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。
また、詩だから何を書いてもよいということもなかろう。「すりきれて穴もあいてるてらてらの黄色い毛布でねむれねむれ」という野樹さんの歌があるが、毛布や孤児の描写が通りいっぺんで粗く、処理が軽いと思う。それは、あまりに悲惨なものを目にして、適応不全のため判断停止に陥っているせいかもしれないが、どうも世界の事物に十分な愛を注いでいるようには見えなくなっている。裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。


確かにこれは二人の作者に対する人格批判とも思われる。お二人が熱烈なる反論をされるのも無理はない。しかしここは第三者としてできる限り冷静で客観的な意見を言わなければいけない。

で、最初のほうの「ゴミ山や同和は、この特定の作者らに「詩のことば」を書かせるために、この世界に存在していたかのような扱いであるが、詩人は「詩のことば」を書くことに、そんな文化的特権性を付与してはいけない。」であるが、僕がこの『christmas mountain わたしたちの路地』を読んだ限り、そんなふうには全く思えなかった。作者はゴミ山の体験を追想して、できる限りこの状況、我々が謳歌している資本主義のこの影の部分を言葉にして伝えなければ、と悪戦苦闘したに違いないのだ。田中氏の意見だと、社会問題を詩歌にする権利は誰にもないような、そんなふうに読み取れる。何なんだろう、この人は。僕の読み違いだろうか。これは熱くならざるを得ない。我々はこの社会のなかに生きている、と言えるが、この社会と対峙して存在している、とも言える。そんな状況でだれもがこの社会に接し、社会詠なるものが自然と出来上がる。野樹かずみさんの短歌は悲惨な状況に対峙して目を背けず活写した、アララギ的社会詠の一つの極みだろう。これがわからない人に短歌を批評する権利はない、と言いたくなるぐらいだ。

最初のほうの文章に「救恤とかセツルメントというような古い言葉が思い浮かぶが、野樹さんはフィリピンのごみ山スラムに出向いて社会活動をしているらしい。」とあるように、田中氏の中に、社会奉仕などの活動を行う人に対する一種の嫌悪感のようなものがどうしても垣間見えてしまう。それは自分がそうしないことによる罪悪感が根底にあるのではと思ってしまう。そういった感情がこの本を読むに当たってのベースになっているのかもしれない。「こういうの好きな人いるんだよな、まるで正義の味方気取りで、まぁ、勝手にやってくれたらいいんだけど、一般の我々に関係のないところでやっといほしいよ、ったく。」てなぐあいだ。

かつて高遠菜穂子さんが「自己責任」だと日本中からバッシングされたのも、こういった社会奉仕に対する罪悪感から来る嫌悪感がベースになっていたのだろう。彼女たちは確かにやりたいことをやっているわけで、それは自己責任でやらなければいけないわけだけど、そんなことは十分にわかってやっているわけで、しかしその奉仕活動を批判することはなかろう、とうんざりするほど思った。詩人にもこんな人がいたのか、と思うとげんなりだ。(どうも冷静にはなっていられないようだ)大体もし彼らのような存在がいなければ、この世界はもつだろうか。彼らが献身的に努力していることにより、この世界は世界として最低限もっているのでは、と思い至らされる。この世界は経済と幾許かのヒューマニズムと(良質な意味での)個人主義とだけで成り立っているのではない。もっと突っ込んだ徹底したヒューマニズムを実際に実践する少数の人がいるからこそ、この世界は世界として成り立っているのではないか。世界を根底のところで切り結んでいるのではないだろうか。それはおそらく人間という存在がヒューマニズムを礎にして初めて存在できるからだろう。

僕の親戚の女性にもインドネシアでジャイカの一員として、児童労働の研究、国境なき医師団の通訳などの活動を行っている人(亀山恵理子さん)がいるが、これだけ回りにこういう人がいると、彼女たちを突き動かすのは何だろう、と考えざるを得ない。しかしここでその考えを披露すると田中氏と同じような決め付けになるだけなので、言わないほうがいいが、あえて少し言わしてもらうと、世界を知りたい、という単純な気持ちと、女性の場合、母性本能、がやはり関係しているのでは、と少し思う。でも決め付けるのは全く良くない。それは人それぞれにそれぞれの理由があるからだ。その理由が個性であり、その個性を理解することこそが人を理解するということだからだ。ひとは決して十把一絡げには扱えない。人を十把一絡げで考えること、つまり人をカテゴライズすることこそ、その人に対する最大の侮辱になるだろうから。

また、「裏返して考えれば、愛が必要なのは孤児ではなく、かわいそうな作者のほうかもしれないのだ。」とあるが、わざわざ言うことだろうか。だから何がいけないのだろう。お互いに愛を必要としているわけで、相思相愛ではないか。作者サイドもブログでこの部分を激烈に非難されていたが、その気持ちは痛いほどわかるけど、これはすばらしいことで、うらやましいことでもある、と僕なんかは思うが。ただ田中氏の書き方がむかつく、のはものすごくわかるのだけど。なんせ嫌悪感がみえみえなもんだから。
作者らの自我の場所は、フィリピンによっても、中上によっても、ほとんど移動していない。誰かに用意してもらった絶対安全地帯からセカイを眺望、観覧して、それが自分自身の『癒し』であることに錯覚させられていることに気がつかなければならない。」これも確かに言うとおりだと思う。どこまで行っても日本に帰れる以上そこは日本人として絶対安全地帯であるからだ。だから何がいけないのだろう。いったい田中氏は何を批判しているのだろう。そこが絶対安全地帯だとわかっているからこそ、自分たちは所詮安全だという罪悪感があるからこそ、必死で子どもたちのために行動するのだろう。彼女たちもそれは十分自覚してやっているわけで、それを自分のための幾許かの『癒し』だと十分わかってやっているわけで、どこまでやっても満足は得られないのだろう。こんなことで満足しているのは、それこそこれを生業とする芸能人のような正真正銘の偽善者のみである。満足しないからこそ、詩歌として伝えたいのではないだろうか。徹底したヒューマニズムを実践する理由は何であれ、その実践は尊いはずだ。それを小馬鹿にするような似非知識人が、本来最も尊敬されるべき詩人としてこの世に生きているとは信じたくない。偽善者扱いされて彼女たちが怒るのも当然である。

こういった批判の仕方をする田中氏こそ、社会奉仕活動に対する罪悪感から来る嫌悪感を無意識のうちに持っている人なのではと、一般によくいる日本の利益が第一だと考えている厚顔無恥な輩だと、十把一絡げで考えてしまう。ああ、この決め付けはよくないんでしたね。ともかく政治家や一般の人ならともかく、詩人がこういうこと言うもんだから、我々は怒っているのである。だから決め付けてしまうのだ、一緒じゃないかと。

この4月の末に、京都で『christmas mountain わたしたちの路地』のささやかな批評会を作者のお二人を招いて行います。十把一絡げで考えてほしくなければ、遠いでしょうけど、参戦されてはと思うのですが。田中さん、いかがでしょう。
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コメント
この記事へのコメント
ご無沙汰しています。
いや~、すごく興味津々に読みましたけど、どうも上手く行ってないような気がします。「第三者としてできる限り冷静に対応」としては。
田中庸介氏の批評はおろか、コラボ作品そのものも全く読んでいないので、野樹かずみさんと河津聖恵さんの反論も今ひとつ的外れなのかどうか、よく判りませんけど。
「罪悪感があるからこそ、必死で子どもたちのために行動・・それを自分のための幾許かの『癒し』だと十分わかってやっている」
「正真正銘の偽善者・・。満足しないからこそ、詩歌として伝えたい・・。」
「徹底したヒューマニズム」
この細見さんの論理展開むちゃくちゃじゃないですか?
どちらかと言うと、コラボのお二人を『偽善者!』と批判する方に使うべき展開だと感じます。
当事者「せい」の不足をごまかすために『詩』でお茶を濁すっていう形で批判するのなら、この『徹底したヒューマニズム』っていう言葉が生きてくるでしょうけど、それは『詩』を冒涜する行為でもあるなんて加えれば、もっと細見氏のこの分析は迫力が増すでしょう。偽善っていう言葉もシックリする。誰に向けるかがあべこべって感じがしますね。
全くの門外漢なので、ぜひ少し教えて頂たいんですけど、細見さんが読んだ感想では、やはり、このコラボ作品は、『ゴミ山の人々』との一体感を持って、或いは「そこの人々」の細部の感情の起伏を十二分に感じ取ったうえで、描かれて(詩的に表現されて)いるのでしょうか?
或いは自己満足の終始している(と細見さんは感じた)のでしょうか?

そこら辺の自己分析がまず必要ではないかと思いました。
2009/04/17(金) 22:23:58 | URL | 三介 #CRE.7pXc[ 編集]
読まれてからにしてほしいですが
三介さん、お久しぶりです。

確かに僕も冷静になれず、つたない文になったかもしれませんが、本来議論に参加されたいのなら、当該図書を読まれてからにしてほしいものです。それと失礼な言い方ですが、非常にあなたの文章はわかりにくいです。文章を書くなら相手にわかるように書くのもまたエチケットではないかと思うのですが。僕も人のこと言えないかもしれませんが。

>お二人を『偽善者!』と批判する方に使うべき展開だと感じます。

そのつもりで書いていますけど。
2009/04/18(土) 20:20:12 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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