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排除の構造
昨日の話の続きだが、「排除の構造」について少し考えてみたい。

まず、フーコー、佐藤雄一、河津聖恵の三氏の言うことを僕なりにまとめると、法律よりセキュリティが優先される状況、がいま急激に可視化されていて、そこには「排除の構造」がある、ということだ。

しかし考えてみればもちろん「排除の構造」というのは昔からあったわけである。
たとえばインドのカースト制度や日本の部落差別問題だが、不可触賤民、非人、あるいは穢多と呼ばれた人たちは、生まれつき穢れた存在として、触るだけでこちらが穢れる、とされ社会から排除されてきた。では病気でもない彼らがなぜ排除されたのか。それは何かを排除することによって、社会は一つ安心を得るのではないか、ということ、そこに「排除の構造」があると思われるのだ。だがこの場合理由は何でも言いわけで、何でもいいからあいつらに触ると穢れるから排除しろ、となるだけなのだ。もっとわかりやすい例で言えば、中世の魔女裁判である。だれか個性的な女性を魔女と弾劾して排除することによって、その社会は一つの安心を得るのだろう。この場合も魔女たる理由は何でもいいわけで、とにかく排除することが目的で、そして最終目的は安心感を得ることである。社会というものはいつの時代もどこの国でも安心できないものなのである。だから安心するために何かを契機としてこの「排除の構造」が機能するのではないか、と思われるのだ。

しかしいまは科学的知見が一般大衆にまである程度流布し(もちろんある程度だが)、こんな何の根拠もない非科学的な排除は影を潜めてきた。だがもちろん今でもあるのはある。カースト制度も部落差別も魔女裁判も。魔女裁判はないだろう、と思われるだろうが、十年ほど前に日本であった。野村佐知代、つまりサッチー騒ぎと呼ばれた一連の騒ぎだけど、この人は確かに変な人だった。だがあそこまで日本中から総すかんを食ったのは、この「排除の構造」が働いたのではないか、と見ていいだろう。つまり彼女一人を排除することによって、社会は何か安心を得るのだ。自分たちはここまでひどくない、とか。だから自分たちはまともだ、とか。

そして科学的知見が一般大衆にまである程度流布した現在において、最も「排除の構造」の対象となりやすいのは、病気、あるいは衛生面ではないだろうか。いまの新型インフルエンザ騒ぎも典型例だが、ちょっと前の毒入り餃子事件もそうだった。中国製食品がどれも極端に売れなくなった。主婦はまず食品包装を裏返して、どこ製かを確かめる。中国製なら即断で陳列棚に戻し、国産なら安心して買う。韓国や東南アジア製なら少し躊躇して、自分のふところ具合と相談して、買うか買わないかを決める。中途半端な科学的根拠だ。彼女たちは中国製を排除することにより、その見返りとして、一つの安心を得るわけである。この中途半端な科学的知見というのが一番厄介かもしれない。自分は科学を知っていると過信しているからだ。もっと言えば、「排除の構造」が働きやすい科学的知見のみに執着し他の意見はあまり聞かない。マスコミも、医者など専門家が何を言おうが一般大衆があまり聞かないので、正確な知見より流布しやすい知見のほうを流すことに自ずとなる。また医者も万一のことを重要視しないといけない職業柄、千に一つや万に一つしか起こらないことをことさら重要視して言うことになり(つまり科学の専門家というのは科学的知見には優れていても、全体を見渡した判断というものがなかなかできないので)、そういったことにより、ますます混乱に拍車がかかることになる。通常の季節性インフルエンザでも日本国内だけで、年間1千万人以上が罹患し、1万人以上の人が死ぬ、非常に怖い病気なのだけど、それでも社会は別に混乱していない。しかしそのことをちゃんと認識している人はあまりいないようだ。こういった情報が流れてもあまり気に留めないのか、マスコミのほうが流してもあまり注目されないからあえて流さないのかどうなのかは知らないが。

もしこの新型インフルエンザで一人でも死者が出れば(出るに決まっているが)そら恐ろしい混乱が起こるに違いない。花粉を体から排除するために免疫機構がフル回転しすぎてその人間が死んでしまうような、この社会にそんなことが起こらなければよいが、とそのときのことを懸念してしまう。

書くのにつかれてきたが、この「排除の構造」についてもう一つ。それは民族差別問題だ。いわゆるウルトラナショナリズムである。昨今の民族差別感覚ははっきり異常だ。普通に仕事関係や親戚と話していてびっくりすることがある。たとえば、ある奈良の土産物屋の経営者だが、このインフルエンザ騒ぎで関東からの修学旅行生が軒並みキャンセルをしてきて弱り果てていた。これ自体は同情以外に何もない。もうすぐこの騒ぎも下火になるでしょう、と根拠のないことを言ってこちらは慰めるだけである。その社長と一ヶ月ほど前に外国人旅行客について話していたのだが、この金融恐慌でも中国人は相変わらず羽振りがいいので、大阪なんかはどう彼らを取り込むかに躍起ですよ、というようなことをこちらが言ったら、その社長は急に血相を変え「中国人や朝鮮人はうちはごめんなんや。あいつら匂うやろ、臭いんや。廻りの日本人のお客さんに迷惑なんや。せやから入店お断りしてるねん。」とえらい剣幕である。唖然とするより他になく、この話題を打ち切るしかなかった。中国人は臭い。ただ深く不愉快なため息をつくより他にない。しかし後で考えたら、にんにくの匂いのことかも、とも思ったが、そういう形相ではなかった。はっきり差別感丸出しだったのだから。

この社長に限らず今の日本人の中国や朝鮮に対する嫌悪感は度を越している。これも「排除の構造」ではないか、と思われるのだ。つまり中国や朝鮮を排除することにより、何か安心感を得るのだろう。自分のほうが優れているとか。もちろんそうやって他国の文化を排除することにより自国の文化を守る、ということもあって、一概に責めることもできないのだけど。

これはもちろん日本だけに限らずどの国にもある。たとえばその中国や韓国でも、日本に対する嫌悪感は凄まじいものだろう。これも自国に多大な悪影響を与えた日本を排除することにより、一つの大きな安心感を得ることになるのではないか。それは歴史が違う以上、日本の比ではないのかもしれない。

いや、しかし、今度の日本の新型インフルエンザ騒ぎと少し前の中国の日本バッシングはそのヒステリックさにおいて、国を挙げてということも含め、その排除の猛烈な勢いは同質のもののように感じられるのだ。お互い、それを排除することにより、何かとてつもない安心感が得られるのだろうか。
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