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日本の難点①社会の包摂性
恥ずかしながら、いままで宮台真司という社会学者(おそらくこの分野のトップランナー?)を一度も読んだことがなかった。読んでみると僕とかなり考え方が近く共感できるところが多い、ということに気がついた。もちろんプロの社会学者だから僕よりはずっとシャープに突っ込むし、明快に答えを出す。この「日本の難点」という本、なかなか読んでいて心地よい。それで、読みながら少しずつ感想を書いていこうと思う。

まず序文(参照)がすばらしく、感動したけど、これは飛ばして、32ページの「社会情勢の変化は人々のライフスタイルを変えたのか」というところ。

ここで宮台は80年代のおけるアメリカの日本に対する内政干渉を起点に考えているが、これが関係あるのかどうなのか僕にはちょっとわかりかねる。で、これも飛ばして、前の章での、場の喪失、つまり、お茶の間や井戸端、一杯飲み屋などの人々の共通の「場」が80年代から失われつつあった、ということ、ここを起点にしたい。
そしてネット化が進み、社会が様々な社会の「場」を飛び越して、社会と個人が直接つながる、ということ、ここに宮台は最大の危機を感じている。

 物理的空間に拘束された人間関係は意味をなくし、多様に開かれた情報空間を代わりに頼りにするようになります。それまでの家族や地域や職場の関係から何かを調達するよりも、インターネットと宅配サービスで何もかも調達するようになります。その結果、何が起こるのか。
 答えは簡単。社会が包摂性を失うのです。経済が回るときには社会も回るように見えますが、経済が回らなくなると個人が直撃されるようになります。なぜなら、経済につまずいても家族や地域の自立的な(=行政を頼らない)相互扶助が個人を支援してくれる社会が、薄っぺらくなるからです。
 秋葉原連続殺傷事件が起こったとき、若手論壇人らが「個人を直撃するグローバル化や格差社会がいけない」という論陣を張りました。これは間違いです。グローバル化もそれに伴う経済格差化も不可避です。むしろ、それらによって個人が直撃されないような社会の包摂性が必要なのです。


うーん、このくだりには拍手でした。全くもって言うとおり。あの秋葉原の事件はまさに個人が直撃された、というところがはっきりと可視化されてしまった事件でした。
しかしもちろん社会の包摂性が失われるのも不可避のような気がするのですが。しかしそれをあきらめずに国が後押しするべきなのでしょうね。

 別の言い方をすれば、国家(行政)は「個人の自立」を支援するのではなく、「社会の自立」を支援するべきなのです。社会学者のアンソニー・ギデンズはそれを「社会投資国家」と呼びますが、欧州の政策的な共通了解になっています。


そして国だけでなく、一人一人が「社会の包摂性」が必要だという共通認識を持つべきなのでしょう。

このあと、宮台はこの「社会の包摂性」を回復させるために、武装国家の必要性を説きますが、疲れてきたので、これは次回に。これにはちょっと賛成しかねるけど、なかなか面白い意見です。
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