日本の難点②軽武装から重武装へ
昨日の続きである。「日本の難点」の36ページから37ページ。

ここでまず宮台は、日本に内政干渉を執拗にしてくる米国に強い不快感を示す。そしてこう続ける。

アメリカの言うままになったのはなぜか。第一に、輸出市場としての米国の重要性。第二に、軍事的安全保障の米国依存。
ところが、日本の輸出総額に占める米国向け輸出の割合は、今では2割にしかすぎません。安全保障についても、大切なのは軍事だけでなく、資源の、食糧の、技術の、文化の、安全保障が重要です。軍事側面だけを突出して重要だと見做すのは、単なる「軍事オタク」の発想に過ぎません。


うんうん、確かにそうだ。

加えて、僕の持論を言えば、「軽武装・対米依存」から「重武装・対米中立」へとシフトすべきです。重武装とは、対地攻撃能力を中核とした反撃能力による攻撃抑止能力を備えることです。それには専守防衛の憲法九条を変える必要があります。これは平和主義に反するでしょうか。
逆です。日本は最近まで地雷やクラスター爆弾を禁じる条約を批准しませんでした。自衛隊が残虐な地雷やクラスター爆弾を持つのは、専守防衛の大儀ゆえに地上戦を想定せざるを得ないからです。敵が日本に上陸している時点で「負け」です。先の大戦において沖縄では地上戦でたくさんの人が死にました。それと同じようなことを繰り返すのが平和主義といえるのでしょうか。


ここら辺は多分に誘導的である。まるで自衛隊が専守防衛でなければならないために、この世で最も残虐な印象を与える、地雷やクラスター爆弾を使わざるを得ないように、誘導している。しかし、攻撃的な防衛をしないことが決して平和主義にはならない、というところには大いに賛成だ。僕が前から言ってきたことでもあるし。

平和主義を守るために重武装化が必要であり、そのために憲法改正が必要であるならば憲法を変えるべきです。憲法九条を変えるには中国を含めたアジア諸国の感情的回復が必須となります。それには周辺諸国に謝罪する・しないであれこれ騒ぐの「馬鹿保守」を取り除く必要があります。憲法改正による重武装化に賛成してくれるのなら、謝罪は何回しても構いません。そんなことは問題ではないのです。


ここで「そうだ」とポンと膝をたたいた。しかし次の瞬間、いや待て待て、そうじゃないだろう、と思い直した。「周辺諸国に謝罪する・しないであれこれ騒ぐの「馬鹿保守」を取り除く必要があります」までは見事に溜飲が下がる。頭の悪い右翼ほど嫌なものはない。ところが、「憲法改正による重武装化に賛成してくれるのなら、謝罪は何回しても構いません。」は違う。何か別の目的のために謝罪するのではなく、本当に悪かったと心から謝罪しなければ謝罪の意味はない。当たり前だ。それをしてはじめてこっちも謝罪をした、という気分になれるし、向こうにも真意は伝わる。それではじめて謝罪といえるのだろう。だいたいそんな軽い見え透いた謝罪に周辺諸国が靡くだろうか。靡かないだろう。宮台は頭のいい右翼なのか、と疑念が生じ始めた。

しかしここで飛ばそうと思っていた、この「日本の難点」という本の序文(参照)に戻らなければならない。
ここで宮台は「境界線の恣意性」と、「コミットメント(熱心な関わり)の恣意性」について述べる。

「境界線の恣意性」とは、「みんなとは誰か」「我々とは誰か」「日本人とは誰か」という線引きが偶発的で便宜的なものに過ぎないという認識で、先に述べた相対主義にあたります。


つまり人間はすべてに境界をつけて考えるわけだけど、その境界線が常に恣意的で偶発的だ、ということ、それは絶対的にこれが境界線だということはだれも言えないのだ、常に人によってそれはとり方が違うわけで、それをまず認識しないといけない、という考えかたのようだ。そして「コミットメントの恣意性」についてこう続ける。

「境界線の恣意性」はコミットメントの梯子外しをもたらします。これに対し、「コミットメントの恣意性」は、「境界線の恣意性」については百も承知の上で、如何にしてコミットメントが可能になるかを探求することが大切だという認識です。認識が逆方向を向いていることが大切です。
 分かりやすくいえば、「境界線の恣意性」を問題にする段階が「素朴に信じてはいけない」という否定的メッセージだとすると、「コミットメントの恣意性」を問題にする段階は、対照的に、こうした否定性への自制や自覚をもちつつ「コミットメントせよ」という肯定的メッセージです。


つまり「境界線の恣意性」については百も承知の上で、いかにコミットメント(熱心な関わり)が可能になるかを探求すること、どこからコミットメントすればよいのか、をちゃんと考えてコミットメントするということ、もうかっこつけてだらだらと傍観者でいることは許されないのだ、と言っているのだろう。

以前はどこからが日本なのか(決して国境線のことではなく)をそれぞれが独自の考え方で展開することが許されていた。しかし今はそれが許されることを百も承知の上で、どこからが日本なのかをちゃんと考えてそこにコミットメントするために、またどこからコミットメントすればよいのかを各々が独自に考えてコミットメントする方向で考えろ、いつまでも日本について傍観者でいるな、とそういうことだろう。

こういったことを下敷きにして、宮台は「憲法九条を変える必要があります」と言っているに違いない。つまり宮台はどこからが日本なのか、それは各々が自由に考えてよい、つまり「境界線の恣意性」は百も承知の上で自分はこの地点からコミットメントする。その地点とは、自分は日本に日本人として生まれて日本に育ち、日本文化になじみ、これからも日本に住み続ける以上、まず日本の経済を守り、日本の安全を守るために憲法九条を改正したい、というそういうわけだ。これには全く反論できない。「境界線の恣意性」と、「コミットメントの恣意性」を持ち出される限りだれも反論できないだろう。

しかし次の締めの文章には反論する。

 アジア諸国を感情的に包摂し、憲法改正による重武装化を成し遂げ、米国への負い目から自由になって、軍事・資源・技術・文化の包括的な安全保障戦略を、日本が自立的に考えるようになること。それなくして、実は社会的包摂性の回復や〈生活世界〉の回復はあり得ません。


確かに日本に限らずそうやって国家が自立的に考えるようになることはすばらしいことだしそうなるべきだけど、なにもそうなったとて、昨日言及した「社会の包摂性」が回復することには別にならないように思う。結局、個人と社会が直接つながってしまっていることには変わりないわけだし。ということは社会に何かあったとき個人が直撃されるのも変わりないだろう。「社会の包摂性」が回復されない限り、社会は相変わらず荒んだ状態を維持する。

結局、宮台は「頭のとてもいい右翼」にすぎないのでは、という疑念は相変わらず払拭されないままだ。どこか文章が誘導的なのだ。それもかなり用意周到である。気をつけねばならない。言うことはすごくもっともだし、とっても面白いんだけどね。
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コメント
この記事へのコメント
重武装を非難する人が多いお国柄だとは思いますが

いかに日本人が今の安定した生活を無自覚に享受しているかがわかりますよね。

なぜなら日本は貿易によって外国に多大な影響を与えています。豊かな先進国の金は途上国の物価を上昇させ様々な問題を引き起こすのです。そういったとき豊かな国々は武器を売りつけたり戦争をしたりするわけですが日本はどうやっているのか?

それは他の国、つまりアメリカに尻拭いしてもらっているわけです。

そういった現実があるにもかかわらず軍隊を名指しして否定しながら、自分達は今日のご馳走に舌鼓を打って、なんの罪の意識もなく今日も安心して寝ている。なんだかぼくは大きな矛盾を感じるのです。


私達の豊かな生活は豊かさのバランスを崩して持ってきているのに違いはないのですから。

海の向こうの何の関わりも無いと思い込んでいる戦争はなぜ起こっているのか?なぜ独裁者が生まれたのか?それは軍国主義が問題でも兵器があるからでもないんですよ。

それは私達が起こしているかもしれない。

飽くまで間接的にですが。
日本人は平和を歌うだけでなく。なぜ世界に軍隊があるのか少し自分の頭で考えるべきです。そうすれば逆説的に平和とはどう言うことかわかるのです。

そして日本が独立国として平和な国としてあるためには、どうすれば良いのかもわかります。
2010/03/14(日) 23:05:41 | URL | 11 #QJt3TIzw[ 編集]
武力よりルール
日本の重武装化には大反対ですが、「なぜ世界に軍隊があるのか」はあなたの仰るところも大だと思います。

しかしやはり世界はこれから「武力よりルール」に移行していくべきだと思います。
http://finwhale.blog17.fc2.com/blog-entry-229.html
2010/03/17(水) 20:39:22 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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