癒しの構造
スピッツの「涙がキラリ☆」という曲がここ2、3日頭から離れない。それであらためてCDで聴いてみた。

 目覚めてすぐのコウモリが 飛びはじめる夕暮れに
 バレないように連れ出すから カギはあけておいてよ
 君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから
 弱気なままのまなざしで 夜が明けるまで見つめているよ
 同じ涙がキラリ 俺が天使だったなら
 星を待っている二人 せつなさにキュッとなる
 心と心をつないでいる かすかな光

5行目「俺が天使だったなら」が頭の中ではずっと「君が天使だったなら」と鳴っていた。「俺」ならいいのである。「君が天使だったなら」とはまた情けない男の歌だなぁ、と辟易していたのだ。

いつぐらいからだろうか、〈天使〉という言葉あるいは概念が溢れるように流布しだしたのは。映画『ベルリン天使の詩』からだろうか。〈天使〉とは本来キリスト教に出てくるもので、無宗教の日本人には全く関係がない。〈クリスマス〉も一緒で、関係がなくても口当たりのいいもの、なんだか安易にキレイなものは日本人の間では急激に普及するらしい。これも我らが民族性である。
では日本人にとって〈天使〉とは何なのか。それは結局〈癒し〉ではないだろうか。〈癒し〉という概念をこの〈天使〉一語で象徴してしまっている。とにかく癒してほしいわけである。日本人はいつの頃からか他から癒してほしくて仕方がなくなったのだろう。川柳作家の石田柊馬さんが以前、川柳誌『コン・ティキ』に〈癒しは卑しいことだ〉というふうなことを書いていた。この時日本中が〈癒し〉の大ブームだったように記憶している。〈癒し〉とは他から慰めを乞うことである。確かに卑しい。それは誰でもどんなに強い人間でもある程度の〈癒し〉は必要だろう。しかし常に癒されていないと落ち着かないようなこの現代をどう考えればいいのか。たとえば旅行など部屋が汚れていたりとか、接客態度に問題があったとか、で予定通り癒されないことがあったときに客が憤慨してひょっとしたら損害賠償にまで発展しかねない。〈癒し〉に少しでもヒビが入るともうだめなのだ。〈癒し〉が溢れすぎて、まるで女王様のように君臨するのがこの現代なのだろうか。

石田柊馬さんはまた自身の川柳でもこの問題を違った角度から攻めている。

 釘打って天使をぶらさげておく   石田柊馬

 杉並区の杉へ天使降りなさい     〃

1句目はこの〈癒し〉の象徴である〈天使〉に相当悪意を込め、時代を宙ぶらりんに吊るしたままにしている。2句目は難解だが、〈杉並区の杉〉と言うことで〈杉並区〉という地名を無化し同時に〈天使〉も無化することに成功している。これも天使的な概念を葬り去ろうとする悪意であり、同時に〈癒し〉の洪水に溺れかかっているこの現代に対する痛烈な侮蔑でもある。

 いや死だよぼくたちの手に渡されたものはたしかに癒しではなく  中澤系

この短歌はおそらく中澤系27歳、1997年の時の作品である。もうすでに〈癒し〉が何者かを見抜いている。もちろん〈いや死〉と〈癒し〉は駄洒落だが、これほどシリアスで引き締まった駄洒落をいまだかつて僕は知らない。この駄洒落は決して安易ではなく、かえってこの短歌の韻律をシャープで且つヘヴィなものに仕上げることに成功している。これを歌人の才能と呼ぶのだろう。自分の詩性を短歌という定型に押し込めることによって溢れるほどの才能を制御しているのだ。そういう場合にのみ韻律というものは引き締まるのだろう。〈癒し〉を〈死〉と提示することで世界が反転する。その反転した世界で僕らはいま息をしている。そして1997年と違って2005年の今、もう誰もがこの世界は反転したほうの世界だとうすうすは感づいているはずだ。

「俺が天使だったなら」と聴く女性はうっとりと癒され、男は、そうだ自分が癒すんだと気づき、気づくことで癒される。人を癒すことによってまた自分が癒されるのだ。癒されることと癒すこと、この需要と供給のバランスが崩れてしまうことが僕は恐ろしい。それはもう始まっているのかもしれないが。


セレクション人(2) 石田柊馬集 [邑書林]
中澤系第一歌集「uta0001.txt」[雁書館]
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