再び池澤夏樹
池澤夏樹の小説『スティル・ライフ』より

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない 。
 世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
 きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる。世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。
 でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の上にいる。
 大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。
 たとえば、星を見るとかして。

                    
僕が20代に読んだ書物のなかで、最も感銘を与えられた文章かもしれない。『スティル・ライフ』の冒頭部分である。小説というより一篇の詩だ。

人はこの世界に頼ってはいけない、という当たり前のことにはじめて気付かされた。人は世界の中にいるのではなく、世界と並び立っているのだと。これは20代のとき、驚愕だった。てっきりこの世界の中に人はいるのだと思い込んでいたからだ。あの鬼塚ちひろの「月光」の歌詞のごとく。世界は自分を守る義務があるのだと、無意識に思い込んでいた。ドストエフスキーをそんなふうに読んでいたのだ、恥ずかしながら。

そしてその外の世界と、自分の内部の世界に連絡をつけること、これが一等大事なのだと、ここでは言っている。そのためには外側の世界を出来る限り正確に認識しないといけない。そして自分の内部の世界も同様に正確に認識する。これらを僕自身は一生やっていくのだろうな、と思う。主に文学を通じて。あるいは自然科学、社会学など。その他個人的な経験が一番重要だろうけど。

おそらく文学というものはそのためにこそ存在意義があるのではないだろうか。逆に言えば、これら認識のために役に立たない文学はその人にとっては存在意義が無い。これは間違いないだろう。

つまり文学にとって重要なのは、その役に立つ文学がまた人それぞれ違うことにある。それは人それぞれが世界に対する認識を異にするからで、自分に対する認識も人それぞれ違うからだ。これが文学の最も面白いところであり、最も厄介なところでもある。数学は一つの問題に対し答えは必ず一つだ。解き方は幾通りあろうが、最終的に向かう答えは必ず一つである。しかし文学の場合、答えは人の数だけある。だから人は自分の文学を傍からなんと言われようがやり抜くしかない。それこそが文学だからだ。人のいうとおりにすることはそれがどんなに優秀なことであれそれは全く文学ではない。答えは人の数だけある。それこそが文学だからだ。だから自分だけの答えを出す方向に向かわなければいけない。文学は数学や物理とは全く違う次元にある。文学そのものを否定する風潮が最近目立つけど、それこそ最も悲観すべきことかもしれない。人それぞれ、ということが通じない世界なのかもしれないからだ。逆に文学の世界で、人それぞれであるという概念、が通じない杓子定規な問答も、また最も悲観すべきことかもしれない。そういった杓子定規なことがもしその文学の世界で簡単に通じてしまい、王道にすらなるのなら、その文学ジャンルそのものの衰退を感じないわけにはいかないだろう。
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