世界の痛み
ある詩人のブログで僕は「相対主義者」というレッテルを貼られてしまった。たしかにそうかもしれない、とも思う。しかしわかるようでわからない、そこでの相対主義がなんなのかは。

ようするに、この世界には圧倒的弱者がいて、彼らの痛みを感じずにはいられないわけで、それを弱者も強者も同じでいっしょくたにしてしまい冷笑しているのが「相対主義者」らしいのだ。僕に関しては、冷笑していない、のはわかってもらったらしいけど、「相対主義者」であることにかわりはない、とのことだった。たしかに僕は強者と弱者を分けるのは好きじゃない。勧善懲悪的なものの考え方には一歩引いてしまう。それで、この世界が見えなくなるのではないか、ということを僕が最も恐れるからだ。

そしてこうも聞かれた。

「うた」が発生するとき、その中心には痛みがあるのではないですか?


それにたいして僕は

うたを作るときに、その中心にたしかに痛みがあるときもあります。しかしそれはこの世界の痛みです。そしてその世界は弱者が中心にいるわけではなく、弱者は一様に遍在しています。そして強者も一様に遍在しているでしょう。


この返答に対して

細見さんがうたを作る時は、細見さんが主体となるのではなく、世界が主体となるということですね。しかしそういうことは実際不可能ですから、とりあえずそういう虚構としての姿勢を取るということですね。そのような虚構が可能と考えるか否かというのは、私たちの決定的な違いを示しているのではないかと思います。


これに対して僕は返答しなかったが、はたして「世界の痛み」は虚構だろうか。僕はここおそらく20年ぐらいずっと「世界の痛み」を感じずにはいられないのだ。

例えば最近のことでいうと、宮崎県の口蹄疫問題、20万頭以上の牛が殺処分対象となっている。たしかに畜産農家の経済的痛み、心理的な痛みは計り知れない。政府にはしっかりとした経済的援助をしてほしいと僕も強く希望する。

しかし、この世界は人間だけが住んでいるのではない。さまざまな生物、あるいはモノが存在している。それらをひっくるめて我々は「世界」と呼んでいるはずだ。

殺処分される牛たちはきっと肉体的痛みを全く感じずに殺されるのだろうし、ぜひそうすべきだと思う。しかし我々人間の幸福のためだけに飼育された牛たちが、また人間の幸福のためだけに殺されるのである。それも20万頭以上も。そこに何か痛みを感じずにはいられないだろう。

例えばこんな短歌がある。

雨の県道あるいてゆけばなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁    斉藤斎藤『渡辺のわたし』


雨の道路にのり弁がぶちまけられて、ああ、もうこれはどうしようもないや、という見たくもない光景が眼前にある。その光景は再生不能の現代という時代を象徴しているように僕には思えるのだ。生き物と食べ物の差こそあるが、殺処分される牛たちと「のり弁」は再生不能という次元で、この短歌の中で等価となる。そこがこの短歌の良さ、強さ、であると思うのだ。
メキシコ湾での原油流出事故でもそうだが、世界が傷みゆく光景をこの「のり弁」が象徴しているように思えてならない。もちろんこれら光景として見えてくる傷みだけではなく、見えてこないこの世界の痛みもある。それらひっくるめて「のり弁」が象徴しようとしている、と僕は見る。たしかにこの短歌はとてもクールだ。だが決してそれは冷笑ではない。この世界を真摯に見ようとする熱い思いが僕には感じられる。そこをいったん冷まして短歌にしている。

世界が傷みゆくのを感じる時、「世界の痛み」を僕は感じるのかもしれない。そしてその痛みが僕の短歌の大きなモチーフになっているようだ。それはその詩人のブログで議論していた時気がついたのである。そのブログの人たちをお騒がせしてしまい申し訳なかったのだけど、何でも書いてみるもんだと正直思った。

これ以上この世界が傷んでいったら、いずれ我々はこの世界を悼むことになるかもしれない。そうならないためにもこの世界の痛みをもう少し敏感に感じていきたい、と思うのだ。決して絶望的にはならずに、冷めきらずに。
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