数マイクロシーベルトほどの愛
若い人の短歌を読まなきゃいけない、と痛切に思った。
未来短歌会に所属する者にとって、一つの有効な窓口は野口あや子の時評である。今、未来誌一年分の主だった文章を読み直しているが、彼女の時評がなかなか面白い。

2012年『未来7月号』の時評より

あなたから全人類に配られる数マイクロシーベルトほどの愛  藪内亮輔「愛について」


ウェブサイト『詩客』の「愛について」一連の批評が『早稲田短歌』にあってそれへの批評らしいが、話がややこしいのでそこらへんは割愛させていただく。

要するに僕個人はこの短歌が痛烈に面白かったわけだけど、この一連の他の短歌、たとえば

子が親に似るといふこと原子炉が人類に肖(に)てゐるといふこと      藪内亮輔
シーベルトのなかに広大な海がある。其処のひとつに触れてゐたのさ      〃
被曝限界量をしづかに上げるとき身体のどこか雪の降りゐる          〃
われらは原子炉の灯をともし黄色(わうしょく)の花さかさまに咲かすひまはり 〃


にもあるように、藪内亮輔は原発事故というもの放射能汚染というものを一つの自然現象として、あるいは、全人類で循環する〈愛〉として受け入れようという痛切な諦念を我々に提示してきている。

だが一筋縄ではいかない。〈数マイクロシーベルト〉というのは実は無害なのだ。これが〈数ミリシーベルト〉なら有害なので、解釈が全く変わってくる。無害だからこそ、いちいちマイクロシーベルト単位でやいやい言う無責任な連中をここで痛烈に揶揄できている。『早稲田短歌』の吉田隼人と同様、ぼくもやられた、と思った。僕が書きたかった短歌だと。おそらく日本人の99%はミリシーべルトとマイクロシーベルトとの区別が付いていない。なんでもシーベルトとくると、目くじらを立てる。これがもう歯がゆいやら情けないやら腹が立つやら、もう今まで散々いろんな人に言ってきてて顰蹙を買っていたので、溜飲が下がりました。薮内さんありがとう。でもだれもこの短歌を読んでもこんなことわからないんだろうけど。

〈原子炉が人類に肖てゐるといふこと〉からわかるように、ここでの〈あなた〉は〈原子炉〉でありその原子炉を作った〈人類〉なのだろう。つまり今度の福島原発事故での放射能は人類から人類へ配られた〈愛〉の具体的な形なのだ。それが〈数マイクロシーベルトほどの愛〉なのである。結局は無害なのだが、具体的に数値があり、それを〈愛〉として受け入れましょう、という。それぐらいいいでしょう、ということ。我々みんなが許容していた原発から発生したのだから。それは我々自身から我々自身へと向けられた〈愛〉なのだと。僕のように我々自身の〈責任〉なんて野暮なことは決して言わない。〈愛〉なのだと。なかなかにやさしく、厳しい。

野口あや子はこの〈あなた〉を総合人格としてとらえているが、まあそれでもいいのだろうけど、それだけでは少し説明不足だと思った。

あと細かいことを言うようだけど気になったので。

放射線量は距離の二乗に反比例する。おそらく、愛も。
致死量の愛、其れはすなはち一〇ベクレル、もちろんわれも死に至るなり  藪内亮輔


詞書での〈距離の二乗に反比例〉は〈距離の三乗に反比例〉のはずなんだけど。放射性物質の強さは電磁波でもそうだけど、空間へ放射するので、基本は距離の三乗に反比例する。ただ、地面は突き抜けずに反射するので、正確に三乗ではないけど二乗ではない。2.5~3乗ぐらいでしょうか。まあこの場合科学じゃなく文学なんだから三乗にしとけば問題ないんだけど。

ああ、とにかく若い人の短歌をもっと読まなきゃ、と思った。中にものすごく面白いのが潜んでいる。それは間違いないんだけど、それがどこにあるか全く分からない。とにかく野口あや子さん頼りだ。頼りにしてますよ、野口あや子さん。今後も数年は時評お願いしますね。
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