無季俳句はアンチ巨人軍か
もう僕は俳句にはかかわってないので批評する立場にないかもしれないが、気になったので、むかついたので書く。

「現代詩手帖」9月号の特集「詩型の越境―新しい時代の詩のために」の巻頭シンポジウムで奥坂まやさんの発言があまりに断言しすぎだろうと思った。

〈俳句は季語にたいする「お供物」〉
ま、そういう俳句もあるだろうけど、そういう俳句で傑作もあるだろうけど、有季であろうが、季語によりかからない俳句はいくらでもあるし、後で言う無季俳句ももちろん。だいたい季語そのものがもう相当怪しい代物で、旧暦新暦に関係なく季節感が相当ずれてきているし、だいたい夏が長すぎるしね。そういった怪しげな季語によりかからずに有季俳句、無季俳句を作ることに今俳句の意義があると思うのだけど、やめた人間にあまり言う権利はないが、ああ確かにないけど。

〈形而上的な部分は季語がひきうけてくれる〉
そこまで季語に頼って俳句を作っていると、ろくな俳句にならないよ。他の言葉にも頼って全然構わないでしょう。というか言葉云々ではなくて一句全体で形而上に行けることもいくらでもあるし。だいたい奥坂さんは季語だけじゃなく、言葉そのものを信じ切っているような。言葉そのものに疑問を持つことからすべての詩歌は始まるのだと思う。

〈無季の俳句はアンチ巨人軍のようなもの〉
僕は無季俳句をやってたのでこれに一番カチンときた。ええ、確かに僕はアンチ巨人でした。でも熱心な阪神ファンで、巨人が勝とうが負けようが阪神が勝つとうれしかったのです。(←実際にもそうだけど)
でもよく考えたら、俳句の世界って、短歌と違って2リーグ制なのかも。季語によりかかる「伝統俳句」と季語によりかからない「前衛俳句」と。ぼくは前衛俳句の側にいたから、伝統俳句がセ・リーグだとしたらパ・リーグにいたことになる。阪神ファンじゃなくて、なんだ、えーとオリックスファンか。今になってパ・リーグファンの気持ちもわかろうというもの。

つまり、無季俳句はなにも有季俳句に関係なく、成り立っているということ。俳句には最初からルールがあるわけじゃなく、俳句という韻律があるところから俳句の可能性をいろいろと模索しているうちに、自ずと俳句の領域みたいなものが見えてくる。その模索を否定して最初からルールがあるとするのがだいたい伝統派の言い分。奥坂さんのは結局典型的な狭い範囲の伝統俳句派のいつもの言い分でしかない。

〈盗作は取り消せる〉
これは初めて聞いた。確かに取り消せるのも多いと思うけど、ものすごくオリジナリティの高い俳句に関しては、取り消して済む問題ではない。この人はだいたい俳句のオリジナリィを否定している。橋下徹や麻生太郎の失言が取り消せないのと似たような盗作まがいのも今まであったし。そこまで気楽な文芸ではないでしょう。

〈連作には反対〉
いや、だから反対してどうするの。やればいいじゃない。

もっとセパ両リーグに通じた俳人を連れてきてほしい。いくらでもいるんだから。前のゼロ年代特集の時もそうだったけど、「現代詩手帖」は俳人の人選をいつも誤る。歌人の人選は間違いないのだけど。伝統俳句しか俳句じゃないと思ってるのかな、思潮社の人は。
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