脱社会性から反社会性へ
 今日の産経新聞の夕刊に興味深いコラムがあった。ライブドアとオウム真理教を比べていて、両者の共通点をうまく掬い上げているような気がした。
 「複眼鏡」という名のシリーズでタイトルは「ライブドアとオウム」、筆者はジャーナリストの武田徹氏である。

 長いので必要な部分のみ順次引用していく。

しかし最も似ているのは、両者がともに脱社会的傾向を持つ若者に支持を得たという点だろう。「脱社会的」と「反社会的」とは異なる。現代の社会に強い不満を持ち、そこからの脱出を願うこと、それが脱社会的傾向だ。オウムに走った若者は合理主義的な思考を強制する近代社会に違和感を覚えていた。そして世俗化されない野生的な教養を説き、信じる者に非合理的な世界観を体感させてくれると謳うオウム真理教に惹かれ、入信していった。それは彼らなりの脱社会的な行動だった。
 そうした脱社会的な集団は、当然ながら外部の社会と強い緊張関係を持つようになる。そして内部でも厳しい修行の結果、死亡者が出るなど、「世俗」の法に裁かれる危険も高まってきた。そうした状況の中で宗教集団を守るために、たとえば被害者団体を助けていた坂本堤弁護士を拉致、殺害するなどの凶行に及ぶ。こうして脱社会的傾向が反社会的(な犯罪)行為に繋がって行く。


なるほど野生的で非合理だから強く惹かれたわけだ。ではライブドアはどうだろう。彼らは極めて合理的だけど。

ライブドアの支持者たちも、多くが社会に対して憤懣を蓄積させている若者たちだった。彼らも自分たちの夢を堀江容疑者に託した。大きな要因はバブル崩壊後の経済の閉塞状態だった。
(中略)
そんな株式市場は、若者の脱社会的な指向に答えてくれない。バブル崩壊以後、経済格差は広がって固定され、弱者には挑戦のチャンスすら与えられない機会不平等社会が作られる。そんな状況に不満を持っていた彼らは、明日の日本経済の健全化ではなく、今の自分を変えてくれる大きなリターンを今日もたらしてくれる銘柄を求めていたのだ。
 そこに現れたのが堀江容疑者のライブドア(グループ)だった。分割によって株数は増え、売買単位は安い。毎週のように企業合併を繰り返し、球団買収、ニッポン放送買収の奇手を打ち続けて社長の一挙手一投足にマスコミの注目も集まる。当然、株価は乱高下し、そこに「一攫千金」の夢が集まる事情があった。
 報道では堀江容疑者の「時価総額」主義が暴走し、犯行に至ったという解釈が主流のようだが、たとえ虚偽の手法で増やされていたとしても、実際に株の買い手が多くいなければ時価総額は増えていかない。ライブドア関連株こそ自分を今の閉塞状況から救い出してくれる――、そう考える多くの若者がデイトレーダーとなって株を売買し、結果としてライブドアの時価総額を増やしていく一種の「共犯関係」がそこに結ばれていた事実を無視すべきではない。


とまぁ、ライブドアは一種のオープンな「ねずみ講」とでも考えればいいのだろうか。いずれ破綻するのである。逮捕されて、これで被害が小規模で収まりよかったのかもしれない。
 確かに彼らに閉塞状況の打破という脱社会性はあっただろうが、その脱出すべき社会はすでにもう拝金主義が蔓延していたのだ。オウムほどの強い脱社会性は感じないが、確かに脱社会的傾向ではある。
 本論はここからだ。

 こうした「共犯関係」が肥大化し、脱社会的傾向がオウムと同じように「反社会的」行為にまで繋がっていった。だが、そんな両者の類似を指摘するだけでは足りないのだと思う。類似した現象が時間差をもって繰り返し現れている事情にこそ注目すべきだろう。
 あるいは脱社会的傾向が反社会的行動を導いた事件としては、オウムよりさらに遡って連合赤軍事件もその一つに数えられるかもしれない。連合赤軍事件では政治が、オウム真理教事件では宗教が、そしてライブドアで経済が、脱社会的傾向の受け皿として期待された。


なるほど、ではもっと遡らなければいけないだろう。あの日華事変から太平洋戦争へとなだれ込んでいった、いわゆる大東亜戦争こそ、政治、宗教、経済すべてひっくるめて脱社会的傾向が反社会的行動へと繋がっていった典型的な例ではないだろうか。しかも一部の若者だけではなく日本中を巻き込んで。でもこのコラムはあの産経新聞である。筆者が思っていてもこれは絶対に書けないだろう。
 そして筆者はこう締めくくる。

 そして事件が起こり、一時的に水を差されるが、脱社会的傾向が消えるものではないし、それが反社会的行動に繋がる流れを、日本社会はいまだに防ぎ得ていないのだ。戦後日本社会そのものがはらんでいるそうした歪みを省みる視点が、今度こそ出てくることを願いたい。


違うな、と思った。全然違う。脱社会的傾向というのは何も戦後社会に限ったことではないだろう。それはいつの世も若者の持つ特権なのではないのか。そういったエネルギーのベクトルがその時代の憤懣と結びついたとき、反社会的行動へと繋がるのだろう。思えば、あの明治維新でさえ、徳川時代からの脱社会的傾向だったわけで、無血革命だったが、結局殺人はあったし、戦争のようなものもあったし、歴史が正当化しているだけで、反社会的行動と思える事件はいくらでもあったはずだ。思うに、いつの世も若者というのは、脱社会的傾向というエネルギーベクトルは持っているわけで、それが革命や戦争のエネルギー源になっていたのだろう。革命も戦争もない時代だからこそ、ああいった歪んだ形になって現れたのだろう。だからこういう時代に、そのエネルギーをどう扱えばいいのか、それこそが問題なのだろうと思う。
 これからはおそらくもっと歪んだ形でそのエネルギーが現れるのだろうな、と思う。それは確かに不気味だ。今のようにオタク的世界に潜り込んでくすぶっているうちはまだいいのかもしれない。

 だがしかし逆に僕は、脱社会的傾向というエネルギーベクトルが若者から消えてしまうことのほうがなんだか恐ろしい。つまり覇気がなくなるのだ。そのとき人間という生き物は自閉して終るのではないだろうか。人間とはそうした矛盾した状況の上に、はじめて成り立つものなのだろうから。
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コメント
この記事へのコメント
「融解熱」の社会
今みたいに次々にえげつない事件が起こる状態を政治的には「悪党(ネーミング出来ないから全主体がこうなってしまい、そう呼ばれるそうです)の時代」っていうらしいです、芸術的には「もの狂い」。例の藤田君によると。
従来の安定した社会が「融解熱」で溶けている状態で、ぐにゃぐにゃ。

明治維新後も中々安定せず、日露戦争ぐらいまで、かなり流動的だったとも。でも、ロシアに勝てて、列強の仲間入りした途端に今度は別の意味でぐにゃぐにゃ=「腑抜け」になったとも。誰も「責任」取らない社会もその当たりから始まったんですって。今も「維新」を標榜する人は多いですけど、その多くは「腑抜け」かな? 他人との上っ面な交流しかないところを見ると。産経の独りよがりは確かに、その典型ですね。なべ恒でさえ、「靖国参拝に」苦言を言い始めているのを見ていると。

ちなみにお忙しいとは思いますが、僕のブログにも、たまには遊びに来てくださいね。どうもお客さんが少なくて、寂しいです。涙々。
2006/01/31(火) 00:57:37 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
コメントが?
いつも読んでいただきありがとうございます。

僕も「いわいわブレーク」の1月26日のエントリーにコメントを書き込もうと思ったのですが出来ませんでした。
今もう一回やりますね。

(1分ほど経過)

やっぱり出来ません。前は出来たのにね。
2006/01/31(火) 20:52:15 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
そうだったのですか。
>やっぱり出来ません。前は出来たのにね。

そういう事情だったのですか。
困りましたね。僕にも原因が分かりませんし、
よろしければ、とりあえず、メールで送ってくだされば、僕のほうで、貼り付け直すなりします。貴重な訪問者ですから。ほんと寂しいです・・。
2006/02/01(水) 23:49:04 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
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