スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
--/--/--(--) --:--:--| スポンサー広告| トラックバック(-) コメント(-)
社会とは ― 相模原の事件をめぐって
相模原の施設の事件をめぐって 7月28日

障碍者に言わせてはだめだ。我々が言わないと。
社会に役に立つとはどういうことなのかがもう、この近代が終わった世界ではわからなくなってしまっている。
だいたいあのポケモンGOを遊ぶことに何の意味があるのか。引きこもっている人を外に出すこと以外に。それに限らず、この社会に役に立つことをするのは誰だってむつかしいものだ。僕だって自分の仕事がこの社会の役に立ってるかどうかなんて考えてたら、やってられない。自分と家族が暮らしていくために仕事をしているんだから。だれだって社会の役に立ちたいけど難しいから、ボランティアなんかでお茶を濁すのだ。
社会の役に立たないから生きている意味がない、とか言われたら、僕だって意味がない。

結局は人と人とのつながりだろうと思う。その細かな人同志のつながりがいくつもつながって大きな社会になっているのだと思う。それは他人とのつながりでもいいし家族とのつながりでもいいだろう。家族も立派な共同体だからだ。ネットでのつながりでもかまわないし。もちろん仕事でのつながりも大切だ。

障碍者も必ず誰かとつながっている。そして周囲に感動を与えたりもする。それで十分なのではないか。いや、十分すぎるだろう。
だから障碍者の存在を否定するということは、巡り巡って自分たちの存在を否定することにつながってくる。特になんの感動も与えていない自分たちは障碍者の価値の半分かもしれないのだから。

人間とは国益だけで測れる単純な生き物では決してない。当たり前のことだ。そんな単純な生き物なら人間なんて今すぐにでもやめるしかない。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。