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渡鬼と近代短歌と郵便的不安
また渡鬼が始まった。

もうすでに消失してしまった幻想の大きな物語をまだやっているような気色の悪さがこのドラマには感じられる。

近代短歌もきっとこれと同じで、かつての近代短歌を今読むことはもちろんとても価値のあることだが、いまの時代に近代と同じノリで新たにつくられた短歌を読むということは、渡鬼と同じぐらい僕には気色悪い。

消失した大きな物語を今新たにやるということは、もうそれは小さな物語でしかないわけで、いわゆるオタクなのである。

小さな物語(たとえばアニメ)の住人はそれが小さな物語であるとわかってやっているから、こちらも別に無視すればいいだけだ。郵便的不安は感じるが、さっぱりしている。
だが、それを大きな物語だと信じてやられると辟易してしまうし、ただ気色悪いだけである。こういった人たちは郵便的不安がこの世にあるとは夢にも思っていない。

〈郵便的不安〉という概念が通じるかどうかは一つのリトマス試験紙かもしれない。それは大きな物語と小さな物語がこの世にあるかどうかということの。そしてかつて誰もが信じて疑わなかった近代というその大きな物語がもうすでに消失してしまっていることがわかっているかどうかの。〈郵便的不安〉という概念がわからない人は、自分の感じる世界がこの世のすべてだと、信じて疑わない単なるエゴイストだろう。

人はみなそれぞれが小さな物語の住人である。つまりみんなが多かれ少なかれオタクなのである。大きな物語が失われた今必然的にそうなる。いま要求されているのは、その小さな物語同士で通じるなにかではないか。それがないから時代は苦しんでいるのではないか。現代短歌も同じだと思う。

そしていま、ナショナリズムがかつての失われた大きな物語の代わりになろうと首をもたげてきている。もちろんナショナリストに〈郵便的不安〉という概念は通じないが。
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コメント
この記事へのコメント
主題が難しくて、遅くなりました。
ええ、今晩は。暗号のような言葉ですね〈郵便的不安〉って。

だから、コメントのしようがなかったのですが。何度か読んでいるうちに、要するに「社会の構成員全体(まあ主だった人の多くという意味です)が関心持ち、参加する出来事」つまり叙事詩的状況が失われているのに、相変わらずあたかもそれがあるかのように行動する「おろかさ」「不毛さ」について言っているんですね。その上で、その喪失にはたと気付き、うろたえて、「妄想」=原理主義的「物語」に、或いは、「達観したような気になって誤魔化すニヒリズム」に吸い込まれると。こんな感じでしょうか?
2006/04/12(水) 23:51:06 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
勢いで
なんだか無理にコメントいただいてすいません。
勢いで書いてしまったので、〈郵便的不安〉という言葉をうっかり説明しなかったのですが。不思議と通じています。
とりあえずご参考までに東浩紀の本に詳しいです。

>「妄想」=原理主義的「物語」に、或いは、「達観したような気になって誤魔化すニヒリズム」に吸い込まれると。こんな感じでしょうか?

そうですよ、まさにそんな感じです。そうか、結局、原理主義かニヒリズムなんですよね、行き着く先は。
2006/04/13(木) 22:31:02 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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