宗教と文学
今日親戚のお通夜があり、僕の母の血縁者が結構集まった。その中で母の兄弟姉妹の末っ子に当たる叔母が、僕の前で機嫌よく喋っていた。この叔母は僕より18歳年長の独身で、工芸作家だが読書が好きで、小さいときから僕とは気が合う人だった。親戚の中ではこの叔母が一番自分に近い気質かな、と親しみを感じていたものだ。ところがいつ頃からだろうか、15年ぐらい前からか、急にある宗教に嵌まってから、あまりその叔母とは喋らなくなった。今日もその叔母は最初は宗教と関係ない話を冗談を交えながら喋っていたのだが、ある時点で急に横滑りに宗教に話を持っていくのである。顔は真剣である。冗談はかけらも言わない。僕と同年輩の僕のいとこ達を前に滔々と演説を始めるのだ。また始まったか、とうんざりきたのだが、今日はいつもと違った印象を受けた。叔母の真剣な表情を見ていると、ああ、やっぱりこの人は僕に一番似ているな、と実感したのだ。僕は宗教ではなく、文学に嵌まってしまっただけなのだ。宗教と文学では、本人同士は全く違うと思っても、傍から見れば一緒かもしれない。なんだか理解できないところに行ってしまっている、という点においては。僕も文学に嵌まらなければ、宗教に嵌まっていたのだろうか、文学をやっていて良かったのかな、と叔母の顔を見ているとつくづく思ってしまった。つまり僕と叔母は何かに嵌まらなければ気が済まない性格なのであるきっと。

文学も宗教も同じように小さな物語に過ぎない。ただ文学と宗教で決定的に違うのは、それが小さな物語であると承知しているか否か、という点においてである。宗教に嵌まっている人はたぶんその全員が、それは大きな物語だと信じて疑わないだろう。だから他人に自分の宗教のことを難なく喋ってしまうし、はては勧誘したりも平気でするのだ。一方、文学屋はそれが小さな物語であると、ほとんどの人が承知しているはずだ。だからそれをまさか親戚が集まるところで喋る人はいないだろう。それは喋っても通じるわけがない、とあきらめているからだが。
というより、自分の所属するその小さな物語がそれが何であれ、つまり文学であれ、それが大きな物語だと信じる場合、それは宗教となんら変わりないはずだ。それがたとえ自然科学でも。これが広義での宗教の定義ではないだろうか。

さてこの叔母によると、ここ3年以内に世界で大変なことが起こるとのことだ。これを何度も言っていた。僕はそれは大いにありえると思ったので、何度目かに叔母が言ったとき、「確かに起こるかもしれませんね」と相槌を打っておいた。

叔母の予言が当たらないことをただただ祈るのみである。
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コメント
この記事へのコメント
おはようございます
>僕と叔母は何かに嵌まらなければ気が済まない性格

肉親を見つめると、すごーく大事なことに気付けるんですね。勉強になりました。

>宗教となんら変わりないはずだ。それがたとえ自然科学でも

今読み直している、アーレントも記号(数字や貨幣)を操作しているため言論が出来なくなった、職業科学者・職業政治家に政治(社会)を任せてはいけないと、述べていました。今生きていたら、メヂアに対しても厳しかったでしょうね。
2006/04/21(金) 08:07:22 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
建つ三介さん、いつもコメントありがとうございます。
そうですね、親戚を見ていると、時々あれ、一緒だ、と気がつくことがありますね。不思議で面白いです。でも向こうもおんなじこと思ってるかも知れないけど。
2006/04/21(金) 22:01:44 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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