ウォーホルのように
そうか、ウォーホルだったのだ。

先日の歌会で、加藤治郎さんの次の短歌作品が批評の対象となった。

まさこさままさこさままさこさままさこさままさこさままさこさままさこさま
加藤治郎、『未来』2006年5月号

〈まさこさま〉を単に7回続けているだけの、短歌とは言えるかどうかも怪しい作品に、ぼくは軽い衝撃を受けた。そして次のように解釈した。
つまり皇室報道に対する批判だと。僕自身、皇室にはなんの興味もなく、日頃の皇室報道がわずらわしくて仕方なかった。だがこの作品を見て、我々は皇室を皇室報道でしか知らないことに、はじめて思い至らされたのだ。雅子さま報道に見られるように、この家族ほどプライバシーの守られていない家族はおそらくいないだろう。哀れな一家なのだ。〈まさこさま〉で塗りつぶされることによって、加熱する皇室報道が皇室そのものを蔽い尽くしていることに気づかされたわけである。真の皇室がそれで見えなくなっているのでは、と問いかけているような、そんな気にさせる作品である、と。
ぼくの批評はここまでで、歌会当日、作者に直接聞いてみた。

「これは短歌研究3月号の30首「ファクトリー」(参照)の没作品でウォーホルの関連で、ほら、モンローがいくつも並んでるやつ、あれですよ。」

と、涼しく答える。そうか、ウォーホルだったのだ。ウォーホルに関連した最新の問題作「ファクトリー」を一応読んでいるにも関わらず、ウォーホルをあまり知らないので、気がつかなかったのだ。
そう、あのモンローがいくつも並んでいる絵(参照)。ぼくのような美術音痴でもこの作品には見覚えがある。
マリリン・モンローという当時のアメリカの象徴をいくつも並べることによって、アメリカの資本主義、大衆性、大量消費社会、を揶揄しているように思える。そしてアメリカそのものがそういう大量消費社会の上にのみ成り立った〈空疎〉な存在であると同時に、その〈空疎〉なことがアメリカの〈絶対〉であるということか。マリリン・モンローを並べることによってその両方が言いえているのだろう。
そうならばこの短歌作品も同様に解釈できなくはない。
皇室報道の向こうに隠れた真の皇室とは、それはおそらく無色透明で質量さえない〈空疎〉な〈絶対〉なのではないか。かまびすしい皇室報道に隠れてしまいそれが見えなくなっているのかもしれない。彼ら一家はそういった静かな存在になれるしまたなろうとしているのではないか。報道などほどほどにして、そっとしておいてもらいたいものだと思えてならない。

だがウォーホルは自身の作品について「僕を知りたければ作品の表面だけを見てください。裏側には何もありません」と答えている。そう今言ったような他意はウォーホル自身は最初から何も込めていないのである。だからこそ普遍性を勝ち得たのだろう。鑑賞する我々はきっとウォーホルに踊らされているだけなのだ。

歌会で加藤治郎さん自身にも同じ事を聞いてみた。案の定、この作品に「全く他意はない」とはっきり言い切っておられた。何のことはない。ぼくが踊らされていただけなのだ。
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コメント
この記事へのコメント
上から読んでも「山本山」
かな?と思いましたが、

「〇〇一色」のほうに重心が在ったのですか?! hosomiさんにとっては。
加藤治郎さんの「仕掛け」ですね。
やはり裏と言うか、多義性はある。

2006/05/19(金) 22:12:22 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
回文
そうなんです。言い忘れていましたが、上から読んでも下から読んでも、同じ、いわゆる回文と言うやつです。鋭いですね。

多義性というより、ウォーホルの絵のように、受け手のほうで、いかようにも解釈して良いのではないでしょうか。
2006/05/20(土) 19:45:07 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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