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類句騒動
昨日のsora歌会の懇親会、気がつけば歌会なのに俳句に関係ある人ばかりが残った。(ぼくも元俳人)
それで話題になったのが、俳句の類句問題。

三島忌の帽子の中のうどんかな   攝津幸彦『鳥屋』(昭和61年刊)
三島忌の帽子の中の虚空かな    角川春樹「河」(平成18年4月号)

似ているなんてもんじゃない。はっきり盗作と言っていいだろう、という人が多かった。もちろんたった17文字なのだから、こういうことはあるでしょう、あってもかまわないんじゃない、という意見もあった。これはおそらく摂津の句をわかる人とわからない人とで意見が分かれただけだろう。参考のために言わせてもらえば、この句は攝津ファンなら知らない人は絶対にいないと言っていいほどの高名な句である。

ここで思い出されたのが、3年ほど前に俳壇をにぎわした、類句騒動である。

いきいきと死んでゐるなり水中花    櫂未知子
いきいきと死んでをるなり兜虫      奥坂まや

これで類想論争が起こってしまって、結局、奥坂まやが類似句と認め、自分の句を取り下げ一件落着となったということだ。でも「いきいきと死ぬ」なんて表現はだれでもやる表現だろうし、別に櫂未知子の専売特許とは思えない。レトリックとしては初歩だと思う。だから別にだれでもやっていいはずだ。水中花が〈いきいきと死んでゐる〉のは当たり前で、生きた花をそのままガラス瓶に封じ込めたものが水中花である。その水中花を情事のあとの自分にたとえたらしい。確かに美しい句に仕上がっている。〈いきいきと死んでゐる〉という表現が見事に生きている。だからと言ってこれを使ってはいけないわけではないだろう。ただ使うにはかなり勇気はいるだろうけど。

それに対して〈三島忌〉はどうだろうか。
攝津の句は〈うどんかな〉で見事な諧謔になっているはずだ。このうどんを三島由紀夫の死んだ脳みそに喩えた人がいて、それはそれで大変面白いのだが、なんだか解釈しすぎのような気がする。これは単に帽子を裏返して見せて、「どう、うどんだよ」と言い、「今日は三島忌でね」とにんまりする、ただそれだけだ。それだけで見事な諧謔味が出てはいまいか。つまりこの句は〈うどんかな〉まで行ってはじめて句として成立する。つまりそこまで行ってはじめて〈三島忌の帽子の中の〉が生きてくるわけである。これを真似するとはなぁ、とただただあきれるより他にない。水中花の一件とはまた次元を異にすると思うのだ。つまり〈三島忌の帽子の中の〉というフレーズは摂津だけのオリジナリティだからだ。俳句における剽窃かそうでないかは結局そういうことではないだろうか。どこまでがその作者のオリジナリティか、に尽きると思うのだ。〈いきいきと死んでゐるなり〉にそこまでのオリジナリティはないと思う。もっと言えば、〈三島忌〉と〈帽子の中のうどん〉が結びついているわけで、〈三島忌〉と〈帽子の中〉が結びついているわけでは絶対ないだろう。だからこの文脈の中で〈うどん〉を他の言葉と置き換えることはできないはずなのだ。

攝津は確かに天才俳人だったが、角川春樹も俳人として俳壇から非常に高い評価を受けている人だ。むしろ今の俳壇の評価では角川春樹の方が上だろう。

向日葵や信長の首斬り落とす      角川春樹
瞑(めつむ)れば紅梅墨を滴らす        〃
亡き妹の現(あ)れて羽子板市なるや    〃
いにしへの花の奈落の中に座す      〃
三たりより四人がさぶし花の客       〃    

骨太で魅惑的な印象の句が多い。この程度の傑作がまだまだいくらでもある。ファンも多い。僕が俳句を始めた頃、影響を受けた俳人の一人である。俳句を知らない人からすれば、有名人だから、単に俳句が趣味なだけだろう、と思われがちだが、たとえば中曽根元首相が俳句をやるとか、女優のだれそれが俳句がうまいとか、という次元とは全く次元を異にする。単なる俳句愛好家ではなく、かつて大企業の経営者でありながら、日本の俳句史に残るかもしれないほどの俳句作品をたくさん残している。その角川春樹が何故?とどうしても思ってしまう。
確かに昔コカインで逮捕された。服役もした。だからと言ってその人の芸術はだめだ、ということには決してならないだろう。罪とその人の芸術性にはなんら関係があってはならない。コカインが罪としてはたいしたことがない、とかそういうことでもない。自分ひとりが何を服用しようと勝手じゃないか、だれに迷惑をかけるわけでもないし、という意見もあろう。では何故コカインが犯罪で、お酒は別に問題がないのか。それはコカインの方は、社会に蔓延するとその社会が崩壊してしまうからだ。だから当然これは重罪なのである。お酒ならそこまでにはならない。それでコカインは社会的には罪になる。だから社会的に罰せられた。人間としての罪は別に無いだろう。その自負が角川春樹に無かったのだろうか。「俺は人間としては罪を犯していない、ただ、社会的にはまずかっただけだ。」そう思って堂々と芸術活動をしてもらって別にかまわないわけだ。

これは熱烈なる攝津ファンだから、思うのかもしれないが、攝津幸彦の傑作を侮辱しないでほしいと痛切に思う。もう死んだから、何も言わないだろうからではなく、表現者としての倫理を見せてほしい。もしパロディならそれがパロディだということを明記してほしい。何も明記せずただポーンと載せるだけでは、だれが見てもパロディには見えない。明記したところでこれはパロディにはなっていないが。
おそらくこの攝津の句を以前読んでいて、忘れていて、自分の言い回しのように思ってしまい、発表しただけだとは思う。そういったことは結構誰もが知らずにやってしまうことだし、それはそれで仕方ないのだから、フォローがほしいのである。

生前の攝津幸彦をよく知るある女流俳人が昨日の懇親会で仰っていた。

攝津が生きていても、こんなことで文句を言う人じゃないから何も言わなかっただろうけど、でもこうは言ったわねきっと。「春樹さん、盗むんなら、もうちょっと上手に盗んでよ」ってね。

僕は一度も攝津に会えなかったが、そんな心の大きな人だったとは聞いていた。
ああ、攝津に会いたかったなぁ。
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コメント
この記事へのコメント
本当の花ではなくて
こんにちは。
水中花についてだけど、「生きた花をそのままガラス瓶に封じ込めたものが水中花である」と書かれていますが、違うと思いますよ。水中花は元々生きてない、初めから作りもんの花です。だから、<いきいきと死んでゐる>という表現が生きているのでしょう。
水中花がそういうものだという認識に立てば、レトリックについての見解も変わるんじゃないですか。
でも、どちらも表現するということについてのオリジナリティーの問題を含んでいて、どちらがすごいという事ではないと思います。
2006/05/23(火) 10:49:41 | URL | rei #CFnWuolQ[ 編集]
どちらにしろ
reiさん、どうも先日は歌会ありがとうございました。
水中花は「北の句会報vol.2」に丸山さんが「生きた花を封じ込めたのが本物の水中花」だと書かれていまして、辞書で引いたらreiさんの仰るとおりでして、あれどっちだ?と悩んだのですが、櫂未知子さんのこの句を収めた一連からすると、生きた花でなくてはならなかったのです。そのことを書いたページが今日はいくら探しても出てきません。要するにそのページでは、この句の水中花は情事の後の自分らしいのです。だから前は生きていたわけです。でも櫂さんはそんなことは言ってないんでしょうね。とするとreiさんの言うとおり、最初から生きてもいない無機物の花に〈いきいきと死んでゐる〉というのはそれ全体が比喩で、句が奥深いものになりますが。でもどっちにしろこの表現に作者のオリジナリティはそんなにはないと思います。素人の俳句愛好者がたぶんいくらでもこういう言い方、つまり〈いきいきと死ぬ〉という言い方はしているんじゃないでしょうか。それに対して、〈三島忌の帽子の中の〉という表現はだれもしていないでしょう、間違いなく。帽子の中にうどんを入れてはじめて帽子と三島忌が結びつくわけですから。
2006/05/23(火) 21:25:36 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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攝津幸彦、角川春樹の二人による「三島忌」の句について、細見さんという方がBlog
2006/05/26(金) 08:08:08 | yasnakam→blog
中村安伸さんのブログに面白い記事があった。三島忌の帽子の中のうどんかな   攝津幸彦 『鳥屋』(昭和61年刊) 三島忌の帽子の中の虚空かな   角川春樹 「河」(平成18年4月号) この類似については、すでに話題になっているのかもしれないが、私は、中村さんの記
2006/07/30(日) 23:11:02 | 俳句的日常 come rain or come shine
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