ニュースの価値について
昨日から今日にかけて大きな事件が4つもあった。それぞれが重要な事件だと思うのだが、こういくつもあるとそうでもないような気になってくる。

おそらく村上ファンドの件は戦後有数の経済スキャンダルだろうし、秋田の男児死体遺棄事件はかつての和歌山毒入りカレー事件にも匹敵しうるだろうし、美術界の盗作事件はこの間の考古学の捏造事件以来の絶対にありえないはずの文化面でのスキャンダルだろうし、エレベーターにはさまって高校生の男子が死んだ事故は、エレベーターが閉まらずに動いたという前代未聞のありえないことだし、共同住宅の高層化が進むなか、しかも公営住宅で起こったということも含めて、これこそ日本中が注目するべき事故のはずだ。
つまりどれもが大変なニュースのはずだし、そのどれもがそれぞれ根が深いところにあり解決までに長くかかり、それこそ識者の出番のはずで、TVや報道でもいろいろとやるだろう。

しかしこれだけいっぺんに起こると、ニュースの価値とはいったいなんだろうと考えざるをえない。

ニュースの価値とは情報論的に言えば常に相対的なものでしかない(参照)。その起こる確率が低い事象が起こったとき、つまりめったに起こらない事が起こった時ニュース価値は高い。その逆に起こる確率が高い事象が起こったとき、つまりいつでも起こっているような事はニュース価値が低くなるのだ、たとえそれがどんなに重要なことでも。たとえば交通事故。一つ一つの交通事故は本来大変重要な事故のはずだ。実際、自動車が普及し始めた頃、交通事故などめったに起こらなかった頃は、全国のどこで起ころうが、トップニュースに近い扱いだったはずで、それが日増しに増えていき、現代のように毎日起こるようになってからはそのニュース価値を完全に失ってしまった。それがよほどの大事故か、有名人でも起こさない限り、つまり何らかの付加価値がない限りそのニュース価値はゼロと言っていい。つまりその事象の重要性とニュース価値とはなんら関係ないと言ってもいいのだ。
またたとえば世界のどこかで戦争が行われていて、それが一箇所ならその戦争そのものに大きなニュース価値があるのだが、世界中のあちこちで戦争が行われていれば、またどこかで戦争がおっぱじまろうが終わろうが、そんなにニュース価値はないだろう。

戦争が(どの戦争が?)終つたら紫陽花を見にゆくつもりです     荻原裕幸

想うにあの太平洋戦争の最中、毎日が戦争だったわけで、戦争をやるのが当たり前の日常だったわけで、戦争のニュースはその一つ一つの戦争がどんなに重要であれ、もう聞き飽きるほど聞いていたわけでほとんどニュース価値なんかなかったかもしれなくて、そしてどんなに戦局が悪化しようが、だれも戦争が終わるなんてことは想像だにできなかったときに、唐突に戦争は終わったのである、あの昭和20年8月15日に。あの「終戦」というニュースにどれほどのニュース価値があったのか、戦争を知らない今の我々にはただただ想像を絶するとしか言いようがない。

ひるがえってこの現代、いや今、なんだかニュースそのものに麻痺していくような気がする。重要なニュースがいくつも起こっているはずなのだが、多すぎて一つ一つがそれほど重要には思えなくなってきている。そんな気がするのは僕だけだろうか。
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
社会が「融解中」
お久しぶり、
>多すぎて一つ一つがそれほど重要には思えなくなってきている

95年の震災の際、今回の姉歯事件とは違う形ですけど、やはり構造上の欠陥(ほとんどが施工上)が多数あったけど、不問に付されたらしい。
多すぎると相手されないのか?
何らかの共謀があるような気がしてならない。

今は外資系資本が大量に流入してきているので、従来の「共謀」=官と業一体の異物排除政策があちこちでほころんでいるようです。各パートごとにその筋のエキスパートには目新しくもない事件かもしれないけど、こうあっちゃこっちゃえでフン出スルト、この国の明文法は名分に過ぎなかったのか!?と思うことしばしば。「第2(3?)の黒船」とか「ハゲタカファンド」とか言って騒いでた意味が徐々に明らかになってきたようです。
2006/06/18(日) 07:03:05 | URL | 建つ三介 #-[ 編集]
う~ん、なんか深いですね。
たしかに今回エレベーターの件は外資系だったというところに何かありそうですね。

でも最初思った通りにソフトが原因でした。それしかありえないもんね。
2006/06/19(月) 00:32:09 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
この記事へのトラックバック