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野口毅展に寄せて
8月12日、神戸三宮、ギャラリーミウラでの第3回野口毅展「色と遊ぶ」に行ってきた。
2年前の個展も見たのだが、今回明らかに洗練され進化していた。

野口毅くんは17歳の高校生。小さい頃より自閉症と診断され現在に至っている。お父さんの話によると、小さい頃より記憶力は抜群で色にとりわけ敏感だったが、言葉がどうもうまく扱えない、ということだ。ここまで読んだ方は、「なんだ自閉症の画家か」とお思いだろうが、僕も2年前は大なり小なりそんな感じで、俳句短歌の仲間であるお父さんの野口裕さんとの付き合い上仕方なしに行ったところが少しはあった。それと自閉症に関する個人的な興味と。だが作品.37 を見たときから、これはなんだか違う、尋常じゃないものを感じたのだ。あとこのときの作品.55作品.61作品.66 などの絵の色彩感覚とその色彩感覚の奥に込められた奥深い詩性にこのときもうすでに圧倒されていた。これが本当に13~4歳の子供が書いた絵だろうか、と。とても信じられなかった。色彩の奥にとても子供のものとは思えない明晰な頭脳と研ぎ澄まされた抒情を感じずにはいられなかったのだ。

この画家をより理解するためには自閉症についてもっと理解する必要があるのかもしれない、と思い至る。
野口毅くんは声の大きな大変元気の良い少年である。挨拶もとても元気がいいし人懐っこい感じだ。でも実際はどんな少年なのかは他人のぼくが知る由もないし、そもそも自閉症とはどういうものなのか、僕もだいぶ研究したがわからない。それでお父さんの野口裕さんが書いた、個展のための案内文があるので、勝手に拝借してここに全文引用する。第1回から第3回までの3篇の詩である。これで少しはわかるかもしれない。野口裕さんは高校の物理の先生だが詩がお好きで、俳句や短歌だけでなく時々詩も書かれるとのことだ。

1回目の個展

色と遊ぶ――自閉症の少年が発見した世界      野口裕

 あたりは一面真っ白の世界。何ひとつなく、どこまでも果てしなく白い世界。そこをわたしが歩いている。そしてわたしのまわりにだけは、明るいパステルカラーの丸がそこら中にいくつも浮かんで、色とりどりにきらめいている。そのきらめきの中を通ってゆく。うれしくて、声を上げて笑いたくなるような夢だった。――ドナ・ウィリアムズ「自閉症だったわたしへ」(河野万里子訳)より

 自閉症。英語圏ではIとYOUの区別のつかない症例として有名だと言う。自他の区別のない世界とは超越者のいる世界ではなかろうか。あなたのすることも私のすることも同じ。私がしなければならないことも、あなたがしなければならないこともすべて同じ。野口毅君はよく私に向かって、「お父さん、日曜日にお父さんと毅君は映画に行きます。」と呼びかける。決して、「映画に連れていって下さい。」とは言わない。超越者のいる世界からの声はなんと力強いことだろう。ついふらふらと約束をしてしまうのだ。「はい、お父さんと毅君は映画に行きます。」と。
 遠近法とは無縁の野口毅君の絵には豊かな色が満ちあふれている。ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。
 打算のない世界。嘘のつかない世界から来た色とりどりの夢。それは私の世界であり、あなたの世界なのだ。「あなたと私は色と遊びます。」


私とあなたの区別がつかない世界。そこでは「ひとつひとつの色が野口毅君であり、絵を見ている私たちなのだ。その絵を見ていると私たちもひとつひとつの色それ自身になってゆく。そこに嘆きはない。朗らかな笑いが取り囲んで、私たちを元気づける。野口毅君が自他のない世界から発見したものだ。」これを本当に理解するには大変難しいはずだが、彼の絵を見ているとわかったような気になるから不思議だ。本当にこんな鑑賞の仕方が出来れば、その人は大変幸福になれるだろう。

2回目の個展

忘れもの             野口裕

言葉が邪魔になるときはないだろうか?
いつもは大切な言葉
呼びかけたり 答えたり 知らんぷりしたり
計量カップのように気持ちの水かさを知らせてくれる言葉

だけど
あまりにもさわやかに風が吹いて日が落ちる頃や
緑の樹々がなにもかも光にしてくれるお昼時や
ざあざあとたっぷりの水が落ちてくる夜明けなどに
ふっと言葉を置き忘れていて
何かを思っているのだが
言葉にすると何かが違ってきてしまう
そんなことはないだろうか?

人は多くの言葉を知ってしまっていて
夕日の赤と黒のダンスや
緑の葉っぱのくすくす声や
白い光を練り込んだ雨の朝の前に
つい何かしゃべり始めてしまう

言葉を忘れたまま何か考え続けても
何も出てこないと決めてしまって


野口毅君は言葉が少々不自由です
いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら
ものを考えています

彼の絵の
水や夕日や樹々の鳥たち 土や人の顔
すべて色となり
遊び友達を求めて
光となって画面の外へ飛び出して行きます
そんな光を思う存分浴びてしまったら
忘れていたものを思い出せそうな気がしてきます

野口毅君とともに
色と遊びながら
忘れものを取りに行きましょう


注目すべきは「野口毅君は言葉が少々不自由です/いつも言葉を脇に置いて 色と遊びながら/ものを考えています」だろう。言葉を脇に置く、ということ、これは我々にはなかなか理解できることではない。なぜなら言葉から物を考えたり感じたりする癖が身についてしまっているからだ。言葉を脇に置けばたちまち我々は不安になるだろう。何をどう考えていいのか何をどう感じればいいのかわからなくなる。だから絶対にそんなことはしない。だが彼は言葉を脇に置いて、想う、様々なことを。それらを色に託すのだろう。普通のあらゆる画家も言葉を脇に置くということはしない。だから彼らが描く絵はすべてに理屈がある。言葉によって構築された理屈が充満している。それはたとえピカソの「アヴィニョンの娘たち」でも他のどんな抽象画でさえもそうだ。やはり理屈が勝ってしまっている。それは仕方のないことだ。というか、野口毅の絵を見るとそれがわかるのだ。どんな天才であれ、それが言葉を脇に置けない画家の宿命であり限界であるということが。ところが野口毅くんは生まれながらにして、軽々とその限界を越えてしまって向こうの世界にいる。彼は向こうの世界で一人で色と戯れているのだ。それが彼の思索であり、表現なのだろうか。今回の個展の絵でもその色が、喜びや悲しみや不安になったり、様々な推し量れない感情になったりし、見るものを感動させたり、不思議な気持ちにさせたりする。
作品.72作品.78作品.79作品.80作品.88作品.90作品.91作品.92作品.94
言葉を脇に置いて表現されたその作品群は、言葉をどうしたって脇には置けない我々にはあまりに鮮烈で未知の世界に溢れている。彼は言葉を脇に置いて、きっと色でもって自身の詩を表現するのに違いない。

画集の序詩(3回目の個展)

野口毅画集に寄せて            野口裕

誰の心の中にも
いくすじかの時間が流れている

明日は早起きしなければ行けないとか
嫌な人と会わねばならないとか
そろそろ冷蔵庫を整理せねばなど 未来に関すること
雨が降っているから傘を持っていこうとか
中庭の雑草にも花が咲いたとか
腹が減ってきたなとか 今日に関すること
あいつとはしばらく会ってないなあとか
亡くなった父がよくやっていた仕草とか
こどもの頃の遊びとか 過去に関すること

時間の本流は言葉と結びついて
計画され 行動され 記憶されている

だが 心の奥底でどうしても言葉とむすびつかず
かすかに残されている伏流がある
たとえば 棲んだことのない洞窟に感じる親近感
たとえば 天にひろがる星屑と自分しかいないように感じてしまう夜
不思議とそれらは 生前の世界にも 死後の世界のようにも思え
遠い昔と遥かな未来は一気につながってしまう
自分のいる今の両側が一足飛びにやって来るのだ

いつもはそんなことに気付かない
いつも気付くと本流の時間が停滞してしまう
だが たまに気付けば本流もよどまない
だから たまには伏流に遊ぼう

仕事はもともと遊びなのかもしれないが
あんまりたくさんの人が仕事をしているので
仕事は仕事にしかならなかった

ところで
野口毅の仕事は
仕事をはみ出た仕事として 絵を描くこと
ここに彼の画集が完成した
たまたま彼は言葉が不自由なせいか
時間の本流が伏流と直結し
彼のかたわらに太古があり 未来がある
絵の中に
時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり
伏流から湧き出た色だけが遊んでいる

画集を開くと
湧き出た色は光となってあたりを満たし
そこここに
いつもとは違う時間が流れ始めるだろう

さあ、遊ぼう!


野口裕さんの詩も回を重ねるごとに洗練されていくのが感じられる。今までにも好きなフレーズはたくさんあったが、「仕事はもともと遊びなのかもしれないが/あんまりたくさんの人が仕事をしているので/仕事は仕事にしかならなかった」は特に僕の好きなフレーズだ。ああこういうのは詩でしか表現できないな、と感じ入ってしまう。だがここでは毅くんの絵のことを書きたいので、詩そのものに関しての感想は控える。話がぶれてしまうので。

毅くんを理解するにおいて興味深いフレーズがまたある。「たまたま彼は言葉が不自由なせいか/時間の本流が伏流と直結し/彼のかたわらに太古があり 未来がある/絵の中に/時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」
生まれたときから彼を見つめてきたお父さんだから言えることなのだろう。僕にはなかなか理解しがたいがわかるような気がする。確かにいまだに彼の絵には遠近法がないのである。なぜないのか、それはこちらには到底理解しようがないのだが、おそらく言葉を脇に置く、という事からだろうか。言葉を脇に置くことにより「時間の本流の表現たる遠近法は遠ざかり/伏流から湧き出た色だけが遊んでいる」ことになるのだろうか。

個展を見終えてなぜか写真家のダイアン・アーバスのことを思い出した。この不出生の天才写真家は常に、特殊な人にこそ人間のひいてはこの世界の普遍性がひそんでいるのだ、ということを写真哲学として、双子、知的障害者、サーカス団、ヌーディストキャンプ、など普通でない人々を被写体として追い続けた。(参照)確かにその写真には眼を剥くような人間の普遍性が白日に曝されている。これらの写真は紛れもなく奇跡だ。特殊なケースにこそ普遍性がひそむのである。言われてみれば確かに普通のケースにそれを発見するのはなかなか難しいかもしれない。このパラドックスが真理だということは彼女の写真群を見ればわかるはずだ。ならば野口毅くんの場合はどうだろう。彼自身が特殊なケースだと言えば失礼だろうか。でもやはり言葉を脇に置く、ということはもうこれだけで特殊だと言わざるをえない。ダイアン・アーバスは特殊な人を写真にすることによって我々に普遍性を提示してみせた。野口毅くんの場合は自身を特殊なケースとして、自身を通して、我々にこの世界の普遍性を突きつけるのである。この世界の普遍性を具現化した特殊なケースを一旦写真家という表現者を通すのか、この世界を直接特殊なケースを通すのか、の違いだが、考えようによっては、直接特殊なケースを通すほうがより高い普遍性に届くような気がする。見る我々が直接世界の普遍性に触れることができるからではないだろうか。ひょっとしたら彼の絵に感動するのはここが原因かもしれない。

僕は偉そうなことばかり言っているが絵のことなど実は何にもわからないのだ。だが実際に画廊で彼の絵を目の当たりにして、実物の持つ訴求力に圧倒されていた。特に「雪を眺めつつ」という雪の絵の色彩にはただただ圧倒された。ネット上に絵がないのでお見せ出来ないのが残念だが、雪がこうも様々な色を見せるだろうか、と感嘆しながらいつまでも眺めるより他なかった。その様々な色彩があるためよりいっそう雪の白が華やかになるのだろうか。とにかく強烈な白だった。この絵の白色は紛れもなく僕がはじめて見る白色だったのだ。この絵は僕だけでなく同行した何人かの僕の文学仲間も感心していた。僕は1時間ほど画廊にいたが、その間一般客も多く入ってきていて、そのいずれもが申し合わせたようにその絵の前で立ち止まるのだ。それは本当に面白いほどである。中には10分ほども身動きせずに厳しい顔で凝視する男性もいた。

きっと毅くんの画才はフラワーデザイナーのお母様、宗代子さんの血だろう、と勝手に思う。それに裕さんの詩人の血が交ったのだろうか。この豊かな色彩と詩の祭典がこれからもっと大変なことになっていくのをどうしても期待してしまう。こんなにわくわくさせる少年は今絶対にいない。彼自身が表現の可能性だけでなく、人間そのものの可能性を押し広げているような気がしてならない。


野口家のホームページ
画集に関するお問合せ

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