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加藤治郎歌集『環状線のモンスター』を読む
加藤治郎さんの第六歌集『環状線のモンスター』がこの7月に刊行された。(参照)
加藤治郎さん(参照)(参照)は20代のときからずっと歌壇の先頭を突っ走ってきた。彼の足跡をみんな附いて行ったのである。そうすれば間違いなかったからだ。楽だし。そして今46歳、そろそろ選者人生を去年あたりから始められただろうか。若手育成のため自分は一歩引いて、という感覚があったかどうかは知らないが、この歌集を読んでまず思ったことは、いまだに現歌壇の先導者だということだ。やはり気がつけば先頭を走っているのは加藤治郎なのである。そろそろ20代~30代で追い越していく歌人がいないといけないわけだけど、いまだに彼の後をぞろぞろと附いて行くしかない。そういうことをこの歌集は読む者に思い知らせる。

この歌人に関しては様々な面があり、とてもそのすべてを論じることはできないのだが、わかる範囲でなんとか書いていきたい。

今までの歌集を読んでみて、そしてこの歌集を読んでみて、一番強く思ったことは、この歌人はそれがどんな時代であれ、その時代に正確に言葉をチューニングしてくることだ。

春立つとニッポンチャチャチャ野に山にニッポンチャチャチャ鶯の鳴く
日曜の路上のガムをごりごりと削るあなたは誰なんですか誰なんですか
しみとおる苺シロップばかやあいばかやいだれも少年でなく
りーりーうっびりーりーうっびと鳥に似た鳴き声で目覚めるぼくたち
人形のお腹を裂けば(おにいちゃんったら)地下鉄の路線図みたい


これら言葉遊びにも似た現代諷詠のなかにすら、確実に現代が書きとめられている。ここにあるのは間違いなく80年代でも90年代でもないこの現代の言葉であり、この現代の言い回しだ。

しかし加藤治郎はもっとシャープに今の時代に切り込む。

環状線出口はなくてとりどりの小さな鏡に目が映っている
スプーンで抉る眼球つめたくてなぜ生きたまま死んでいるのか
真夜中に剥がれる皮のなめらかに環状線を離れて迷う
フリーザーの濁った氷がゆるやかに降りてくる街、いや、俺の頭に
ここにいるのもそこにいるのも俺じゃないドアチェーンいっぱいに開(あ)くドア


2001年のニューヨーク同時多発テロ以降、何でもありになったこの時代に、おそらくは誰もが抱く、不安、あきらめ、出口のない絶望が、この歌人の持つ言葉への嗅覚とその言葉の滑らかな質感によって、遺憾なく描かれている。
環状線とは、日常の同じところをぐるぐる回ることなのだろう。つまりそこには普通の人が棲んでいるのである。タイトルの『環状線のモンスター』とは、その普通の人が環状線の中でモンスターと化している、ということだろうか。そのモンスターは出口が見つからずいつまでも環状線の中でぐるぐる回っている。でも真夜中にはその皮だけが剥がれて環状線を離れてさまようのだろう。欲望と不安が極限まで肥大化したこの現代で、欲望も不安も抑えきれないモンスターが環状線の中でただじっとしている。それが現代なのだ、と。
ここにあるのは怖ろしいまでにシャープな現代詠である。

たとえばこの歌人が得意とする性愛短歌、あるいはそれを匂わせる短歌においても、この、言葉の同時代性を感受することができる。

ふたり人口臓器のように繫がって頬が破れるまで愛したい
更生のように続けるくちづけの続くわけないせせらぎだから
クーラーの水のこぼれるろろろろと少女の舌はようしゃなかった
やらせてる体がひどくこわばったところでぼくは切り刻む、ザム


この歌人が80年代に一世を風靡した第一歌集『サニー・サイド・アップ』の性愛短歌を真似したような若い歌人の性愛短歌を最近よく目にするが、それは詩歌として全く意味のないことだろう。80年代の明るい不安のない滑らかな時代の言葉でもってあの時代の性愛短歌は成立したし、それを先導したのが加藤治郎だった。確かに印象度は抜群で似た経験をすると真似したくなるのはわかるが、今の時代には今の時代の言葉があり、性愛があるはずだ、少なくとも短歌においては。いや、恋愛、性愛においては今も昔もない、極めて普遍的なものだと、いつの時代もおんなじことやってじゃないかと仰る御仁は多いだろう。確かにぼくもそう思う。だが短歌においては話が違う。今の言葉で描かないことには今の性愛にならないし、それは短歌においては性愛ですらない。たとえそれが実体験に基づいたものでも、時代がずれると絵空事のようにしらけたものになるものだ。そして最も肝心なことは、その時代の言葉で書いてはじめて普遍性を勝ち得ることにある。『サニー・サイド・アップ』が全く色あせず今も若い人に読み継がれているのはそのためだ。

そして今の時代を最も象徴しているのは、戦争であり理不尽で脈絡のない殺人だろう。

空爆にかなしくゆがむ天地(あめつち)のああ産道に挟まれた頬
戦争の終わる日に降る灰色の雪は無数の瞼なり 消ゆ
降る雨に重くなりゆくジャケットは軍服めいて俺を走らす
八月はそこいらじゅうに影のあるうすむらさきの地上をあゆむ
シーソーの脚が静かにおりてきてそこはそのまま戦場だった
原爆忌激しく晴れて卓上に折れたストローまっすぐなストロー


ここでは何事も肯定されないし何事も否定されない。歌人はただ時代の中に身を潜めて、自身も同時代人として時代を体験し、観察し、そして消耗する。ただそれだけだ。
今、かつてのようにただ単純に反戦を訴えることに一体どれほどの意味があるのか。それはおそらく逆効果だろう。また人の命が最も尊いと訴えることが如何に虚しいことか、でも言わなければならないのだが、残念ながら

弾丸は二発ぶちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
化粧する女の顔をぶちぬいてもうとめどなく紫陽花である
氷きるおとこの首をコオリキルオトコノクビヲ、ミザルベカラズ


のように状況を突き放して見つめることでしか、時代を勝ち得ることは今できないのである。そして時代を勝ち得ることなしに、何も表現することはできないし意味すらなさない。つまり今の社会状況を真摯に表現するなら、こんなふうにしか表現できないぐらい、詩歌は今追い詰められているのではないだろうか。今、詩歌は大変な時代に入った、と言える。

そして詩の大惨事なり黒髪を後ろに上げて降り立つ鴉


〈詩の大惨事〉にまみえる覚悟なしに、おそらく今、詩歌には携われない。
この歌集は、短歌が浮世離れした風雅な趣味では決してないどころか、その言葉でもって時代を先導し、その言葉でもって時代を素っ裸にすらしかねない文芸だということを、証明しうる歌集だと思うのだ。

まさに〈モンスター〉なのだろう。
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