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岐路
今日は9月11日。もう一度5年前の今日のことを詠んだ例の短歌に言及したい。(参照)

紐育空爆之図の壮快よ、われらかく長くながく待ちゐき
 大辻隆弘『デプス』


まず〈紐育空爆之図〉だが、これはジェット機がニューヨークの貿易センタービルに突っ込む瞬間のあの有名な映像で、あれが壮快だと言うのだ。僕も記憶にあるが、最初見たときは驚愕しながらも、体験したことのないような恐怖の念に駆られながらも、ある種のカタルシスを含んだ快感があったことは確かだ。誰しもそうだろう。これを否定する人は単なる偽善者に過ぎないと断言できる(女性は別かもしれないが)。だが数回見せられて、これはヤバイ映像だとすぐに感づいた。何度も見るべきもんじゃない、と。
このことに関してある歌人が次のように言っていた。

あの事件は本当に悲惨な事件であった。しかし、あの事件を本当に悲惨なものとして受け止めるには、私たちはあの映像から、絶対に目を背けなければならない。それはあのテロの犠牲者の遺族の方々のように、あの映像を自分のものとして受け止める、ということだからだ。


つまりあの映画的な映像を見ているだけでは真にこの事件の悲惨さがいつまでたってもわからない、というわけである。あの映像を自分のものとして受け止めるためには目を背けなければならないというパラドックスが存在するぐらい、あまりにあの映像はスペクタクルなのである。またこうも言う。

われらかく長くながく待ちゐき
    ↓ 
ぼくたちはデカイ一発を待っていた。

そう、ぼくたちはいつもでかい一発を待っていた。
日常が覆るような、そんな大きな瞬間を、この作中主体は、テレビのこちら側で口を開けて待っていたのではないだろうか。自分が傍観者であるという、この現実には絶対に巻き込まれない、という前提で。

むろん、作者である大辻が、この作中の「われら」と同一の思想を持っているという読みは、注意深く退けられなければならない。


つまりこの短歌はまず現代という時代に対する悪意として提出されている。ここでまず誤解する人がいたわけである。だが〈むろん、作者である大辻が、この作中の「われら」と同一の思想を持っているという読みは、注意深く退けられなければならない。〉わけである。作中の話者はあくまで〈われら〉であるからだ。この場合この〈われら〉についてぜひ検証を試みなければならないだろう。

短歌結社誌『未来』2006年8月号の黒瀬珂瀾氏の時評「近藤芳美と大状況」から、

本年6月21日、近藤芳美氏が逝去された。享年93歳。近藤氏の歌人としての歩みは戦後短歌の軌跡であるばかりではなく、戦後日本の歩みそのものでもあった。「今日有用の歌」の理論を基調とし、一貫して平和祈念と戦争憎悪を歌い続けた近藤氏の歌業。それはややもすれば小状況の詠嘆のみに偏向しがちな短歌において、大状況を歌う試行の場を護り続けたということでもあったのではないか。(中略)「個人生活のリアル」、そして「心情のリアル」に固執した読解では、これら近藤作品に本当の意味で迫ることは出来ない。《大状況を大状況として歌う》という技法の可能性を、今私たちは問い質されているのではないだろうか。


そうした大状況を大状況として歌った典型的な短歌作品として次の一首を挙げている。

テロリズムに加担するか文明の側に立つか問う単純のすでに仮借なく
  近藤芳美『岐路』


歌集『岐路』は近藤芳美(参照)の最後の歌集で2004年刊行である。つまりこの短歌の内容は9.11のニューヨーク同時多発テロ事件を受けているのは明白だ。あの事件で我々は〈テロリズムに加担するか〉〈文明の側に立つか〉というあまりにも単純な問いを突きつけられている、ということだ。つまり絶対にどちらかでなくてはならないわけで、どちらもわかる、あるいはどちらの側にも立たないではもうナンセンスなのである。話にならないのである。そういった切羽詰った状況に我々はもう追い詰められている、ということをここではドライで精悍な韻律に乗せて歌っている。あらゆるイデオロギー、民族、宗教、そして国家を超えたいわゆる大状況としてあの事件は『岐路』なのである。つまりここではこんなふうに追い詰められた人類を俯瞰しているわけである、岐路に立った人類を。
この近藤作品は最初に挙げた大辻作品の説明ではないか、と思えなくもない。
近藤作品は黒瀬氏の言うとおり単純に《大状況を大状況として歌う》ことに成功した傑作だろう。だが大辻作品は2重構造のように思える。上句〈紐育空爆之図の壮快よ〉はまずあの事件に対する個人的な「心情のリアル」である。つまり〈小状況の詠嘆〉である。しかし下句〈われらかく長くながく待ちゐき〉という一人称複数を主語にした反語的表現を使うことによって、その小状況から一気に大状況へと昇華してしまっていないだろうか。つまり「デカイ一発を待っていた」というある種の本音を一人称複数を話者にすることによって、反語へと転化させていないか。それが本音であればあるほど、反語への転化度は強いものになる、というパラドックスがこの作品の難解さであり、最大の魅力なのかもしれない。そして反語へと転換された途端、読み手は大状況へと引きずり出される。この大辻作品でも、あらゆるイデオロギー、民族、宗教、そして国家を超えた大状況としての視点からの『岐路』を凝視しているのである。そして大辻作品から近藤作品へと移行することによって、今明らかに我々は、どちらかの側に立たなければならない『岐路』にいることを個人の「心情のリアル」からも思い知らされるわけだ。近藤作品は大辻作品の返歌とも言えなくはない。片方だけでも状況は飲み込めなくもないが、この二つの作品が合わさって、よりリアルに大状況が迫って来はしないだろうか。

元に返ってあの映像だが、個人の「心情のリアル」としてはあの映像からは目を背けなければならない。それは、目を背けなければあの事件の真の凄惨さがわからないからである。だが大状況としてはあの映像からは絶対に目を背けてはならないはずだ。それは、あの映像から目を背けていては、『岐路』を大状況の「心情のリアル」として受け止めることが出来ないからである。絶対にそれは出来ない。大辻作品はこの如何ともしがたい不条理を最も言いたかったのかもしれない。ここまで考えてはじめてそれがわかる。大変な作品である。
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