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加藤治郎第六歌集『環状線のモンスター』批評会(2)

理解なんてものは概ね願望に基づくものだ
(映画「イノセンス」より荒巻課長のセリフ)


全くそうだ。自然科学系でもそうじゃないかと思えることがあるから、文学における理解なんてものはおそらくほぼ100%が願望である。

で、以下、概ねぼくの願望に基づく歌集批評である。願望が強すぎて、内容を盛りすぎ、制限時間15分をかなりオーヴァーしたようだ。何分喋ったか覚えていないが、30分ぐらいだったかもしれない。今思うと最初から15分で済まそうなんて全く考えていなかったようだし、いいかげんな奴なのだ。そのかわり自分が喋った後の1時間ほどの討論会は全く喋らなかった。言いたいことはたくさんあったのだが。
だからこのブログはちょうどよくて、言えなかったことを書きとめ、言ったこともどうせぼくの記憶力なら1年も経てばすっかり忘れるだろうし、書きとめる。ブログというのはメモ代わりにちょうどいい。

まずぼくのレジュメのサブタイトルを並べてみよう。
①全方位の歌人、②口語短歌への誘(いざな)い、③韻律の制御、④イデオロギー・フリーの視点、⑤時代と並走する歌人、⑥暴力性(二十一世紀の)、⑦童心(ときに残酷な)、⑧静謐な祈りの世界(何に祈ればいいのかわからない時代のための)

とまあ、てんこ盛りである。これを全部やるとたぶんまる一日かかる。でもこれは今までの5冊の歌集を含めての分析なのだから仕方ない。要するに欲張りすぎたのだ。次からは時間配分をちゃんと考えようと思う。

以前このブログでこの歌集の感想を書いているのでご参考までに。(参照)
では一つづつ片付けていく。
① 全方位の歌人
加藤治郎の短歌は様々な方向性を持つので、読み手は誰もが自分に引き寄せて読める。つまりしょせん理解なんてものは概ね願望に基づくものなのだから、各々が各々の願望に基づいて読んで理解が出来る短歌なのだ。軽く言っているが、こんな歌人はそういないだろう。だから彼のファンが僕の周りにはたくさん集まってくるが、それぞれが違った個性の持ち主である。これはかなり不思議なことなのかもしれない。

② 口語短歌への誘(いざな)い
このことに関してはまだまだ勉強不足でわからないことが多い。ただ、短歌において文語と口語をつなげる上で最も功績の大きかった人ではないだろうか、と思える。本来文語の韻律である短歌を口語で言うのはじつは大変なところがあったに違いない。穂村弘も俵万智も口語短歌を押しすすめたが、それまでの短歌の遺産をことごとく口語短歌につなげたのは加藤治郎ではないだろうか。穂村はおそらくそれまでの短歌遺産と切り離したところで新しいエクリチュールを創出している。これはこれでまた大変なことだろう。天才的なことだ。俵万智はおそらく近代短歌とうまくつなげてきているのではないだろうか。(ここら辺のぼくの言動は実にいい加減である)が、とりあえず間違いなく言えることは、前衛短歌を口語につなげたのは間違いなく加藤治郎である、ということだ。これは誰も異論のないところだろう。だからぼくはおそらくいとも簡単に口語で前衛短歌をやれるのかもしれない。先駆者は苦労して切り開くのだが、後からついていくものは、先駆者の作った道を口笛を吹きながら歩いていけるのだ。

③ 韻律の制御
この項目もまた勉強不足であるにもかかわらず何か書こうとしている。
自分のレジュメに助けてもらおう。

五七五七七という短歌韻律に圧力をかけて、五七五七七に合わすことなく、自身の内なる韻律で短歌韻律を制御している。

書きなぐっても書きなぐっても定型詩 ゆうべ銀河に象あゆむゆめ
 『サニー・サイド・アップ』


韻律において歌人というのは2種類に分類できるのではないかとぼくは思っている。つまり、その歌人が五七五七七に支配されているのか、五七五七七を支配しているのか、の2種類だ。支配されている側は極めて従順に五七五七七に言葉をあてはめようとする。一方支配している側は五七五七七に常に圧力をかける。時に圧力をかけて崩そうとさえする。これは同じ五七五七七で短歌を書いていてもこの差はわかるときがあるものだ。
上述の短歌は加藤が20代の時の作品だが、このときすでに短歌定型に対する苛立ちともいとしさともとれる複雑な思いを短歌定型にぶつけて圧力をかけている。おそらくこれは宣言なのかもしれない。この定型詩と一生格闘してやるぞ、という。
穂村や俵万智はどちらかといえば定型に従順のように思える。加藤も最初は従順だったのかもしれない。だが近藤芳美や岡井隆のように短歌韻律に強烈な揺さぶりをかけてくるところで短歌修業をすると従順になんかにはなれないだろう。そしてこの短歌韻律に対する揺さぶりを口語でやったところが、加藤治郎の短歌における大きな功績の一つではないか、とぼくはひそかに思っている。誰もこんなことは言わないが。

今日はこれで終り。明日早いので。
続きは明日ぜひ。
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