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加藤治郎第六歌集『環状線のモンスター』批評会(3)
一昨日の続きである。

④イデオロギー・フリーの視点

「イデオロギー・フリー」という言葉は僕が思いついた造語のように思っていたのだが、検索してみるとどうも昔からあるようだ。日本人はイデオロギー・フリーの民族なんだそうだ。確かにあまり宗教や主義などには染まっていない人が多い。
ぼくがこの言葉を思いついたのは、レジュメにも書いたが以下の文章による。

もとより散文で白黒割り切れない思想を短歌は扱うのである。作品がイデオロギーの下僕でないことも共通認識である。政治的正義とは別の位置にある。(加藤治郎)『加藤治郎歌集(現代短歌文庫)』p.120


これは岡井隆の歌集で原子力問題を扱った『ウランと白鳥』と9.11同時多発テロを扱った『〈テロリズム〉以降の感想/草の雨』に加藤治郎が言及したものだ。ぼくは岡井隆はまだ初期の歌集しか読んでないので、これには言及しないが、ここで「作品がイデオロギーの下僕でないこと」とあり、ここにビビっと反応してしまい、この「イデオロギー・フリー」という言葉を思いついた。つまりここで「イデオロギー・フリー」とは、どんなイデオロギーにも寄りかからない、客観的な立場でものを見る味方、とでも言おうか。
また批評会でも言ったが、「イデオロギー・フリー」と個人主義は違う。社会秩序より個人の自由を重んじるのが個人主義だ。それに対して「イデオロギー・フリー」の立場は社会のことに積極的に目を向けている。個人と社会のありようを常に客観的に無意識に洞察しようとする。

レジュメにも書いたが、次の短歌がこの言葉の意味を最もよく説明していると思う。

テロリズムに加担するか文明の側に立つか問う単純のすでに仮借なく
近藤芳美『岐路』


この短歌については以前にも書いたが、去年93歳で亡くなった近藤芳美が同時多発テロの際、88歳の時に作った短歌である。物理学者の江崎玲於奈が「人が創造的な仕事を出来るのは20歳~70歳までである」なんて書いているが、それを軽く裏切っている。俳人の永田耕衣は95歳のときにとてつもない俳句を書いていたから、この年齢に関することは人によりけりなのだ。

この短歌では、ニューヨーク同時多発テロが起こってから、テロリズムに加担する側に立つのか、文明の側に立つのか、という怖ろしく単純な問をすべての人が突きつけられるようになった、ということがわかりやすく言われている。つまりどちらの側にも立たない「イデオロギー・フリー」という立場はもう許されない、ということだ。これは日本を取り巻く東アジアにおいても同じことが言えるだろう。おまえは愛国者か、中韓の側に立つのか、どっちだ、という問だ。実際今一般の場で、少しでも客観的に今の東アジア情勢を言おうものなら、「おまえは本当に日本人なのか、在日じゃないのか」と問われるに違いない。

また逆もある。これは僕自身が実際に体験している。
去年、俳句仲間と飲んでいたとき、「皇室をどう思うか」と問われた。この問自体は純粋な問だ。どんどん問うべき問だろうしどんどん議論すべきものだ。ところがこれに対して、ぼくが皇室を否定しない発言をしていたら、別の人が「細見さんは短歌をやるから、もし将来、皇室のあの歌会始に選者として招かれたら行きますか?」と問われたのだ。はぁ?なんだって?僕は「全くありえないことで考えたこともないので答えられないし、考えること自体ナンセンスでしょう。」というふうに答えたと思う。実際絶対にありえないことを考えることなんて出来ない。この人はいつもセンスの良い意地悪な質問をする面白い人でぼくは大好きなのだが、この時ばかりはセンスが悪かったと思う。まぁ二人ともかなりへべれけに飲んでいたし、別にいいのだが。この人は、皇室を否定しないぼくの立場がどちらなのか、峻別したかったのに違いない。あの中国の反日暴動以来、どちらなのか、という単純な問いかけがこの国を覆っている。

また別の場である人は、歌会始の選者に岡井隆が招かれてそれを断らなかった岡井を強く非難していた。このときぼくは岡井隆のことを余りよく把握していなかったので、それに対して同意もしなかったし反論もしなかった。が、おそらく今思うと、岡井隆も「イデオロギー・フリー」の立場なのでは、と思える。「イデオロギー・フリー」の立場の人はどちらにも与(くみ)しない謂わば傍観者である。「おまえはどっちなんだ?」とつるし上げられても、ただ無表情に立ち去るのみだ。「イデオロギー・フリー」の立場の人が歌会始に選者として招かれてそれを受けたとしても、それを非難することは「イデオロギー・フリー」の立場そのものを非難していることにはならないだろうか。ぼくは岡井は勝手にあの退屈極まりない歌会始に行けばいいと思う。こちらはそれを非難もしないし、立派で目出度いことだとも思わないだけだ。それが「イデオロギー・フリー」である。

要するに彼ら愛すべき僕の文学仲間たちは、相手が体制か反体制かに非常に敏感になっているだけなのだと思う。時代がまたそれに拍車をかけるのだ。

ぼくが加藤治郎に最も惹かれた点はこの「イデオロギー・フリー」の感覚だったのかもしれない。何者にも与しない無色透明な感性。この感覚はデビュー以来あったに違いない、おそらく無意識のものだ。だからぼくも無意識に惹かれたのだろう。その感性はこの仮借なき時代にも決して萎えることはない。

知の眠る深き真夏の沖つ藻のなびく右派左派ナショナリズムは
戦争の終る日に降る灰色の雪は無数の瞼なり 消ゆ
ヘリコプターの中で飛ぶ蠅じりじりと髭剃りながら殺人にゆく
弾丸は二発うちこむべしべしとブリキのように頭は跳ねて
降る雨に重くなりゆくジャケットは軍服めいて俺を走らす
舞い上がる花の骸に包まれて歩兵であればそのまま進む
くるしみて雲はふくらむ戦場の画像は肉を映さざりけり
人間の頭の爆ぜる鈍き音順に聞こえて静かなりけり
愛国無罪愛国有罪ゆるやかに夜の飛行機は雲にかくれぬ
どうしてくれるんですかと喚く記者みれば洋梨のような日本である 
原爆忌激しく晴れて卓上に折れたストローまっすぐなストロー

以上『環状線のモンスター』よりひいた。戦争を肯定も否定もしない。戦争というものを客観的に見ているだけだ。誤解のないように言えば、もちろんとことん無色透明でいられるはずもなく、反戦を歌ったのもかなりあるがここでは敢えて省いた。
戦争は残酷なものなんだとただ客観視する。戦争を客観的に分析する。冷静に見る。そこからしか真の平和は創出できないだろう。当たり前のことだが、平和とは戦争のない状態のことを言う。ただそれだけが平和の定義だ。だから平和を祈るのに平和のことばかりを考えていても仕方がない。平和を具現化するためにはただ戦争のことだけを考えないといけない。なぜ戦争が起こるのかとか、戦争が起こったらどうなるのかとか。戦争と真向かわないことには真の平和はいつまでも遠いままだと思うのだ。

戦争は人間の避けられない業である。この業であるところにこの歌集は一歩踏み込んだのではないだろうか。

まだ続きます。次回は来週です。
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