加藤治郎第六歌集『環状線のモンスター』批評会(5)
中二日も開いてしまった。22日、月曜日の続きである。
少し間延びしてしまったが、今日でピシッと終わる。
⑥番⑦番はとりあえずレジュメをそのままコピーする。

⑥暴力性(二十一世紀の)
やわらかいナイフであそぶ今ぼくのこころは顔のない静物画
けーけーけーと禽がみおろす駅前のそれはおそらく足なのだろう
ヘリコプターの中で飛ぶ蠅じりじりと髭剃りながら殺人にゆく
氷きるおとこの首をコオリキルオトコノクビヲ、ミザルベカラズ
昼夜おそらく幾千の車輪に轢かれ轢かれて何か、なお残りけり

⑦童心(ときに残酷な)
幼子がそこを走ってゆくようにふくらむカーテン春の終りに
しみとおる苺シロップばかやあいばかやいだれも少年でなく
人形のお腹を裂けば(おにいちゃんったら)地下鉄の路線図みたい
吐く息のまだ白くなる通学路ぽっぷぽっぷしゅあと少女は駆ける

短歌はすべて『環状線のモンスター』より。
暴力性、童心、これに性愛を加えて、これらは今までに多くの評者から言及されているように、加藤治郎の短歌の特徴として目立ちやすい傾向である。わかりやすいので、ここではあまり言及しない。短歌をあげるだけにした。

今回こんなふうに加藤治郎の短歌を分類していて、炙り出されてきたことがある。それが次に述べる⑧番の「祈り」だ。

⑧静謐な祈りの世界(何に祈ればいいのかわからない時代のための)
静かな祈りの世界、あるいは祈りのような世界があることに、今回はじめて気がついた。これはぼくにとって大発見だった。短歌で祈れるのである。これは全く知らなかった。

戦争の終る日に降る灰色の雪は無数の瞼なり 消ゆ
ビル街を飛ぶ桜花おそらくは滅びを知らぬひとびとの上
白鳥の首に真水がみちていてゆうぐれしんとみずを吐き出す
いきものの薄い肋が吊るされて硝子のかなた花のようです
いきものの臓器は暗き回廊に似て絶望の長さをもてり
真夜中のエンドロールは人名の昇天に似て静かなりけり
八月はそこいらじゅうに影のあるうすむらさきの地上をあゆむ
鍵盤のひとつひとつが墓であるときおりふれてあそぶひのくれ
原爆忌激しく晴れて卓上に折れたストローまっすぐなストロー

以上『環状線のモンスター』より。
このすべてが祈りだと断定できるわけではない。祈りの前段階、か祈りに近いだけか、それは特定できないが、とにかく祈りを感じさせて、読み手に静かな深い情感と安寧をもたらす。
暴力性、幼児性、性愛、が高音部、中音部の派手な装いなら、これら「祈り」は通奏低音だろうか。それらすべてひっくるめて読み手は鑑賞するのだろう。

以前からこういった傾向があったのかどうか、調べてみたら少しはあった。気がつかなかっただけである。各歌集から代表的な「祈り」を挙げてみる。

一九四五年八月六日
神に武器ありやはじめて夏の朝気体となりし鉄と樹と人
『サニー・サイド・アップ』

フロアまで桃のかおりが浸しゆく世界は小さな病室だろう
『マイ・ロマンサー』

オラクルのようなゆうばえ沈黙にふさわしきものなきぼくたちに
『ハレアカラ』

まりあまりあ明日(あす)あめがふるどんなあめでも 窓に額をあてていようよ
『昏睡のパラダイス』

つややかな水を出しあうおたがいのいたるところがゆるされていて
『ニュー・エクリプス』

ただ、とことん検証したわけではないが『環状線のモンスター』に比べると数は少なかったように思う。こういった傾向がこの歌人の根幹にあった、ということだろうか。それが突然この『環状線のモンスター』で増えたようだ。それはなぜだろう。

ポストモダンの時代、たとえば環境問題などにより、人間のみに価値があるわけではないようだ、と窺われ、ヒューマズムなど頼りになる価値軸が喪われてしまい、何に対して祈ればいいのか、何を祈ればいいのかさえわからない、そんな時代になった。そして2001年のあのニューヨークの事件以降、ますます時代は切羽詰ってきて、いよいよ人間は祈らずにはいられなくなり、様々な宗教が隆盛を迎えている。「祈り」こそ人間の存在理由かもしれない、と思わずにいられない。
だが、我々イデオロギー・フリーであり無宗教であるなら、祈る場も祈る対象も赦されていない。だから短歌で祈るのだろうか。これら奏でられた「祈り」にただ耳を傾けることでしか、「祈り」に身を任せる術を知らない。

派手な高音部中音部に隠れたこれら通奏低音を聴き分ける耳を、この歌集は我々に問いかけているように思えてならないのだ。それはきっと時代の表層部の下部に隠れても脈々とある、より普遍的な情操か何かだろう。
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コメント
この記事へのコメント
 『環状線のモンスター』、まだ読んでいません。どころか、加藤治郎の歌集は一冊も読んでいません。風評からの印象で、時代と寝てしまった人と感じていたので、私には関係ないだろうと判断していました。しかし、論の終わりが、祈りで締めくくられるとは思いませんでした。

真夜中のエンドロールは人名の昇天に似て静かなりけり

 この歌をいたく気に入りました。時代と寝てしまった人間に瞬発力のあるのは当然ですが、時代が変わって時代に背かれたとしてもしぶとく光り続けるものをもっていることを証明するような歌だと思います。
 歌集の読みが祈りにまで届き、なおかつ過去の歌集にその源泉を探るところまで探求する細見さんの行き届いた鑑賞もさすがです。
 とは言え、私には関係ないとする印象は変わらないのですが。
2007/01/26(金) 21:55:51 | URL | 野口裕 #-[ 編集]
時代と寝る歌人、寝ない歌人
うわぅ!こっちに来るとは、すごいフェイントですね。今日気がつきました。

「時代と寝る」と来ましたか。きつい突っ込みですね。恐れ入ります。

でも一つ言えるのは、「時代」そのものが、その人のタイプなのかどうか、というところがあると思います。
ぼくの勝手な印象ですが、俳人はまず「時代」がタイプではないようです。ですから「時代」からはなれて物事を見るくせがあるように思えるのです。それに対して歌人は「時代」がタイプの人が多いような気がします。僕も結構タイプです。でも加藤さんのように寝たりはしません。それはおそらく怖いからかもしれませんが。友人のように「時代」と一緒にお茶を飲んでだべったり散歩をしたりとか、そんな感じです。それ以上は踏み込めません。でも「時代」と寝ないことには真に「時代」を理解することは出来ないのでは、と考えさせられます。そして「時代」と寝ないことには、歌人としてのリアルが達成されないのでは、とも思います。

でも寝るのはしんどいですね。ぼくも俳人を引きずっているのでしょうか。少し離れて観察したいのかもしれません。せめて一緒に飲むぐらいが楽しいですね。
また一緒に飲みましょうね。次回のsora歌会は2月18日(日)新大阪です。
2007/01/27(土) 21:37:04 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
ちなみに
真夜中のエンドロールは人名の昇天に似て静かなりけり

は人気のある歌です。
ぼくはそのあとの

八月はそこいらじゅうに影のあるうすむらさきの地上をあゆむ
鍵盤のひとつひとつが墓であるときおりふれてあそぶひのくれ

の方が好きですけど。
2007/01/27(土) 23:09:45 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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