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春の赤紙
今日は加藤治郎第六歌集『環状線のモンスター』の番外編である。

またまたぼくの願望に基づく理解が続く。

この歌集にとても気になる一首がある。どうもあちこちで様々な評価をされているらしい。賛否両論なのだろう。それで今日はこの一首のみにぼくの願望に基づく理解をあてはめたいと思う。それは次の歌だ。

おそらくは電子メールで来るだろう二〇一〇年春の赤紙


この短歌をそのまま詮索ワードに入れてネットをさまよったが、やはりあちこちで賛否両論があった。たとえば一般的な若い人の受け方の代表は次のようなものだろうか。(参照)

本当にありそうに思える1首。今の不安な時代を上手く反映していると感じる。今の日本には、徴兵制度は無い。しかし、世界情勢をみると、日本が戦争の時代に逆戻りをしそうな予感がある。その頃には、何の感情もないままに電子メールと言う媒体で、まるで難破でもするように知らせが届きそうな気がするのだ。感情が無いぶん、余計に怖い。それが、桜の時期にやってくるのだ。春はうきうきする。しかし、反面寂しさや切なさの伴う時期である。そんな時に、赤紙が突然届くのである。己の散り行くことまでも予感させる。まさに、モンスターがやってくるのだ。
☆ なんちゃって歌人 kamomeの発熱する短歌 ☆2006/08/06 87号


実に素直に反応している。逆に言えばだまされやすいというか。こんなに素直で大丈夫かな、と危惧してしまうぐらいだ。

次に少し上の世代のニューウェイヴ短歌は理解したくなさそうなおじさんの代表意見。(参照)

私は、このような作品にかなりの危惧をもつ。一体、社会と自分の関係をどう考えているのだろうか。危機感がゼロのように見えてしまう。加藤の電子メールと赤紙のとりあわせ。どう読んでも他人事である。二〇一〇年はまもなくである。そんなことが現実的にありえない。何かを言えたと思うのはかなりの錯覚ではないか。
ふたたび社会詠について(「かりん」2006.11月号より転載)


つまり、こんな大事なことを言うのに電子メールでは軽すぎる、とうわけだ。

次にわりと真っ当な意見。(参照)

問題なのは、本気で赤紙が電子メールで届くことも有り得ると考えているのなら作者は馬鹿であり、本気でないのなら不真面目だと非難するのであり、どちらにしても名を成した人の発表する作品ではない。
黒田英雄の安輝素日記/2006年12月11日


確かになるほど、と思える。だがこの黒田氏はあちこちでこの短歌に関して、批判しているが、そのほとんどが加藤治郎本人に対する中傷めいた罵詈雑言であり、全く品がない。一体何が不満でこんなに人の悪口ばかり書くのだろうといつも不思議に思っている。この短歌に関してまともに客観批評らしかったのはこの部分だけだった。

黒田氏が言うには、赤紙のような重要なものをセキュリティの確立していない電子メールでなど送るはずがない、ということだ。
また小高氏は、赤紙のような重みのあるものを電子メールなんかで送る発想というものに戦争に対する危機感が全く無い、と危惧されているのだ。

両氏をまとめると、赤紙が電子メールで送られてくることが、黒田氏は物理的にありえない、小高氏は感情的にありえない、というか許せない、ということで、両氏とも赤紙と電子メールの取り合わせにリアリティが無い、ということだろう。

だが僕の場合この点では全く逆である。赤紙というのは昔実際に赤い紙で届いたのだろうが、そんなことを何べん言われても映画などで何度見ても、今現実問題としてリアリティは全く感じられないのが誰もが正直なところだろうと思う。ところがそれが将来には電子メールで来るんだよ、と言われた途端、赤紙というものがリアリティをもって眼前に迫ってくるわけだ。この点において、この短歌は大変成功していると思った。電子メールというツールが現在においては何よりもリアルなものとして存在しているのだということを逆に思い知らされる。だからセキュリティの問題で赤紙が電子メールで来る来ないは、この短歌の場合、瑣末なことだろう。

しかしぼくが問題にしたいのは「電子メール」ではなく「赤紙」そのものである。つまり赤紙そのものにリアリティがあるだろうか、ということを問いたい。
赤紙になんのリアリティも無ければ、このよく出来た短歌はひどくつまらない薄っぺらなものに堕することになる。

結論から言って、赤紙つまり召集令状はもう絶対に来ないだろうということだ。じゃ、おまえは戦争は絶対に起こらない、とでも言うのか、と叱られそうだが、戦争は逆に絶対に起こると思う。中国が覇権主義をやめない以上、将来戦争は絶対に起こると大変危惧している。でも召集令状はありえない。なぜか。

まず召集令状がなんなのか、ということを冷静に考えよう。戦争をやる側に立てば自ずとこのことの非現実性が見えてくる。これは戦争に行きたくない若い人を無理矢理戦争に連れて行くことである。戦争をやる側に立てばこんな嫌なことはない。何が嫌かというと、士気が上がらないのである。士気が上がらずに戦争がうまくやれるはずがない。だから戦前この士気をあげるために靖国というシステムがあったのだが。今そんな非科学的なものを小泉がいくら鼓舞しようとも誰も信じないだろう。
次に、一般の働き盛りの若者をごっそり戦争に持っていく、ということが何を意味するのか、である。20代30代の人々によって、ある程度国の経済は持っているのではないだろうか。命令する人だけでは経済は成り立たないだろう。実際に前線で大いに働く人がいなくなると国体は到底維持できない。つまり召集礼状まで来るということは、もうその戦争は負けなのである。召集令状そのものが実はかなり非現実的なものだ、ということだ。だから戦争、即、召集令状、という考え方自体が戦争に対する考え方を硬直化している。召集令状の前に必ず志願兵募集、というのがあるだろう。士気の在る者、あるいはお金がほしい人、を募集するのがまず現実的な選択だ。

最後に、科学技術の進歩がある。あの太平洋戦争時とはおよそ比較にならない兵器などの戦争技術の進歩をもたらしている。あの戦争時、なぜ一般の人を招集したのか。おそらく歩兵が足らなかったのだろう。それは圧倒的に歩兵に頼る戦争だったからだ。今はかつてほど歩兵に頼る戦争はしていない。いきなり空爆である。このほうがよほど効果的である。素人の歩兵ぐらい邪魔なものはない。それに日本が召集令状というばかげたものを発行するぐらいならその前に、日本が世界に誇る科学技術、特にロボット技術を国を挙げてその戦争に注入するだろう。そうすればあの戦争先進国アメリカですら驚くほどのロボット兵器なり兵士ロボットなりが出来上がるに違いない。もし核に頼る戦争さえしなければ、おそらく日本は世界で最強の軍隊を持つことになるかもしれない。これはしかし実際怖ろしいことだが。

ということで僕から見れば「春の赤紙」の短歌は結局つまらないものとなった。最初に歌集でこの短歌を見たとき、あーあ、と思ったのだ。なぜかと言うと、この作者に限らず、戦争が起こったら、必ず赤紙が来ると、思い込んでいる、安直な反戦イデオロギーの人がこの世のまともな人にほど多い、ということだ。つまり時代は繰り返す、と頑なに思い込んでいる人がなんと多いことか。それも立派ないい人に限ってそう思うのだ。リベラルな人ほど。
時代は絶対に繰り返さない。いや、たとえ繰り返したとしてもそれはほとんど偶然である。僕が言いたいのは、時代が繰り返す、と思うことの安易さである。実際には時代はどう変わるかは誰にもわからない。だから想像力をたくましくさせていろいろと思い巡らせないといけない。時代は繰り返す、と思うことは、そういったあらゆる思考の停止である。様々なことに備えて、何が来るんだろう、と常に思ってないと、不測の事態になかなか対応できないだろう。つまり時代が繰り返す、と思ってはいけないということだ。

ただ、徴兵制はニュアンスが違う。徴兵制とは外国に攻めてこられたときに備えた準備であり、これはどの国もやっていて、誤解を恐れずに言えば、日本にもあって不思議はないと僕は思う。これに対して召集令状とは、今現実に行われている戦争に直接駆り出されることである。徴兵制はおそらく将来日本でもあるだろうと思う。だが韓国のように皆が皆、というわけではなく、適性がある人だけにしてほしい。そのほうが効率的だし、世論の反対を少しでも回避できるだろうと思うからだ。とにかく召集令状にしろ、徴兵制にしろやる気のない人間に訓練させるのは極めて非効率だし、反対されやすい。

反戦も一つのイデオロギーにすぎない。戦争は人間の業である、という客観的な観念が抜けている。
ぼくはできる限りイデオロギー・フリーの立場から戦争というものを見ていきたいと願うのだ。


う~ん、かなり誤解を招く文章をまた書いてしまった。僕を右翼と見る人はいるだろうな。あるいは戦争礼賛者だと。

右の眼に左翼左の眼に右翼   鈴木六林男

ですから、ええ。
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コメント
この記事へのコメント
 召集令状が来るかどうか、徴兵制があるかどうかについては、論評しないでおきます。
 この歌は「…だろう…春の…」という言い回しで一首全体に蜃気楼のような雰囲気を漂わせることにねらっているのではないかと思います。hosomiさんのようにストレートに召集令状・徴兵制に議論を進行させる読者が存在するということは歌として成功していないのでは。「赤紙」の語感を読者が重く受け止めがちだと言うところを予想し損ねている感を抱きます。

 黒田英雄の加藤治郎の歌に対する論評を「中傷めいた罵詈雑言であり、全く品がない。」としていますが、彼が書いたものをよく読んでみると、加藤治郎は「女を知らない」と論評していることはよく分かります。私自身「女を知らない」ので、それが当てはまっているかどうかまでは断言できませんが、一応の意見として耳を傾けるだけの価値はあるのでは。
2007/02/10(土) 09:33:05 | URL | 野口裕 #-[ 編集]
野口さん、またこっちですね。

たぶん電子メールと言ったことで、赤紙に妙なリアリティができてしまったのでしょうか。仰ることよくわかります。

黒田氏の文章はあまり読みたいとは思わないですね。個人攻撃を趣味にする人の文章は公平さを欠くでしょうから。僕は人の悪口ばかり言う人はもううんざりなのです。まぁ彼の場合隠れて言ってないのでそこらへんはまだましでしょうけど。

たぶん黒田氏はメンタルな面で「女を知らない」と言っているのでしょう。加藤治郎はそこらへんは意図的に捨象しているのだと思います。今はそういう物質優先の時代だ、ということではないでしょうか。黒田氏の言いそうなことは大体想像がつきますので。

加藤治郎氏は相当戦略的な歌人です。全部わかったうえでやってくるのです。「春の赤紙」も野口さんの仰るとおりそうかもしれません。ある意味誤解されやすい歌人でしょうね。
2007/02/10(土) 12:52:19 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
加藤治郎氏は相当戦略的な歌人
ご無沙汰しています。
そうなんですか、去年紹介してもらったまま、まだ本を探せていませんが、面白そうっすね。
確かに色んな議論が皮相で、中々深まらない内に、次々問題が出てくる。そんな時代には、特に「戦略」要るでしょうから。
昨今の改憲・論議には、産業政策として軍拡(先端技術開発)の波に乗りたいというのが、「無邪気に」あるような気がしています。戦争は映像で遠巻きに観るものっていうのが、非前線の人間、非地上部隊の感覚でしょうから。斯く言う僕も含めて。
でも攻められる側、紛争地の人、支援する医療チームとか、真の現場で報じるジャーナリストにとっては、やはり前線の兵士と同様、それは修羅場。
ここら辺のギャップって詠われた作品、ありませんか?
その上、大事件さえをも消費(浪費?)する社会の儚さ、愚かしさ。
やはり、叙事詩が生まれ得ない時代ていうことなんでしょうか?
聞き手たる僕らの意識がコマ切れ過ぎるので、そうならざる得ないのかも?
よく分かりません。
2007/02/12(月) 01:37:29 | URL | 三介 #CRE.7pXc[ 編集]
すべてが消費し尽くされる時代に
三介さん、どうもお久しぶりです。

>戦争は映像で遠巻きに観るものっていうのが、非前線の人間、非地上部隊の感覚でしょうから。斯く言う僕も含めて。

なるほどそうですね。今社会詠で問題にされているのもここら辺かもしれません。素人さんには思えないほどの鋭い切込みを感じます。

>でも攻められる側、紛争地の人、支援する医療チームとか、真の現場で報じるジャーナリストにとっては、やはり前線の兵士と同様、それは修羅場。
>ここら辺のギャップって詠われた作品、ありませんか?

う~ん、なにせ勉強不足で申し訳ないです。無名の歌人にはあるかもしれません。今度ぜひ意識して他人の短歌を読むようにします。

>その上、大事件さえをも消費(浪費?)する社会の儚さ、愚かしさ。
>聞き手たる僕らの意識がコマ切れ過ぎるので、

はげしく同感します。ほんと大事件が次々と起こって、まるで事件も消費されているようですね。鋭い社会分析をありがとうございました。
2007/02/13(火) 21:09:43 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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