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穂村弘のIN/OUTそしてBorder
もう短歌の世界で知らない人はいないくらい、この話はあっという間に広まったらしいので今更ではないが、僕の知り合いは俳句川柳関係も多いので、彼らに知らせるのと僕自身の備忘録として、ここに少しだけ書いておこうと思う。

2007年4月15日(日)「第5回ニューウェーブ短歌コミュニケーション」が東京であった。が僕はもちろん行ってない。西巻真さんのブログに詳しく載っているので、僕もここで概要を知った。
【西巻真のブログ】
要するに、短歌の世界は歌壇と称するINとその外の主にネット短歌のOUT、そして境界線上のBorderの3種類に分けることが出来る、ということだ。

共同体というのは不思議なもので、このINなのかOUTなのかボーダーラインにいる人を内に取り込んでいこう、取り込んでいこうとする傾向がある。共同体自体は非常に賢い生き物で、INだけで存在するとその共同体は脆弱化していくことがわかりきっているので、たとえば馬場さんや岡井さんといった超一流の歌人たちは、ニコニコしながらボーダーラインにいる人をつかまえてきて、「君いいねぇ。君いいねぇ。」といってINに引っ張ってこよう、引っ張ってこようとする(笑)。基本的に超一流の歌人たちは、ボーダーラインにいる人たちが大好きだ。ところが、その下の二流の歌人みたいな人たちはボーダーラインにいる人たちを捕まえて「あんなのは短歌じゃない。短歌じゃない」という(笑)。


たしかにそうで、そういう二流の歌人というのは本当にたくさんいて辟易としたものだ。というか違う世界の人たちのように思ってもいた。
こういうふうに言われると今までぼんやりと思っていたことが輪郭がくっきりとしてきて気持ちよい。さすが穂村弘である。

俳句や川柳にもこれは同じことが言えて、やはり僕がいた「北の句会」はBorderだったのだろうと思う。攝津幸彦自体が永遠のBorderでBorderの権化みたいなところがあった。摂津が主宰した俳句同人誌『豈』もBorderそのものでBorder上の膨れ上がったそれはそれ自体でINではないかとさえ思えてくる。
ただ俳句は短歌と違って、Borderを取り込もうという意識が俳壇の方で全く感じられないので、俳壇はもちろん俳句形式そのものが脆弱化したのではないだろうか。ここのところはかなり確信できる。

昨日のJ歌会京都で加藤治郎さんも仰ってたが、未来短歌会彗星集(加藤治郎選歌欄)そのものもBorderだということだ。僕も無意識にそのつもりで参加していたので安心した。やはり狙うのはBorderしかないだろうと思う。どう考えてもそこしか面白いところは存在し得ないからだ。これも無意識に思っていたことで、穂村さんに具体的に言われたところで、こちらとしては何の変化もない。僕の作歌姿勢は変わらない、ということが確認できてこれも安心している。
ただジャンルを越えてのこの普遍的な思索には唸るより他ない。この影響力は多大である。
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