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一人の表現者として
気がつかなかった。同じグループにいて気がつかないのはなんとしても悔しい。またも西巻真さんに教えてもらった。
僕と同じ、『未来』彗星集(加藤治郎選歌欄)所属の長谷川眞理子さんである。
以下、彼女の近作より。

犀の怯ゆるやうに怯ゆ 剥がしても剥がしても消えぬ電子文字〈櫻〉
腐肉に息づくおびただしき緑葉のごとくほほえむとはにほほえむ 弥勒は
『未来』2007年3月号

鳥の正面衝突(音楽のやうに帽子を変へる)、鳥の側面衝突(もつともあたらしい記憶)。
関数やうばたまの炸裂のごときが現しくうつくしうてのひらを見せ   
[ルビ:現=うつ]
『未来』2007年4月号


塚本邦雄の再来かも、とまず思う。意味はかなり難解だが、読んでるだけでぞくぞくしてくる。がなによりその韻律だ。およそ短歌の従来の韻律を無視している。短歌が5・7・5・7・7がまず基本で、あとは字余り、句跨り、だとか、ちんまりしたことがここでは全く存在していない。塚本が韻律の魔術師なら長谷川眞理子は韻律の破壊者だ。気持ちよいまで破壊してくれている。
僕も似たような感じでやってきたつもりだが、僕のほうがはっきり手ぬるい。これは彼女の短歌を読んではじめて感じたことだが、僕の韻律は従来の短歌韻律と切れまい切れまいと謂わば短歌韻律にどこか媚びているような気持ちがどこかある、ということだ。長谷川眞理子の場合は短歌韻律に対する媚びはカケラも感じられない。見事である。いさぎよい。全く無視している。

一人の表現者として僕は恥じなければならない。INだOUTだBorderだ、と二日前は騒いでいたが、そんなことは上の人に任せとけばいいのである。自分がいる場(つまり結社とか)がどのセクションかは重要だろう。だが僕のような新人は自分自身がどのセクションの歌人なのかを考えた時点で、もうその歌人は表現者として一部死んでいる。自分がどのセクションかは問題ではない。INであれOUTであれBorderであれ、どのセクションにいるとかに関係なく、何ものにも囚われずに精一杯の表現をすることが重要なのだ。それが表現者というものだ。それを彼女は僕に教えてくれた。彼女の作品は何ものにも囚われていない。
最近の僕はどうも結社に染まりつつあり、自分を少し窮屈にしていたかもしれない。確かに人間関係における礼節を失していては情けない。だが自分の表現まで窮屈にしていては本末転倒だろう。
彼女の作品を読みまた初心に帰ったような真っ白な気持ちで短歌に向かえるかも、と願う。とにかくこれからの彼女の作品に注目していきたい。
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