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昨日のJ歌会京都
昨日の土曜日、休みを取って(といっても自営業なので勝手に休むんだけど)J歌会京都に行ってきた。それで今日の日曜は一人でのんびり休日。10時半頃ごろごろ起きだして、むにゃむにゃとメールの文章を書いたりして、3時頃から、梅田に行った。まず西梅田のジュンク堂である。昨日お逢いした吉岡太朗さん、短歌研究新人賞の受賞作品をみんなで批評したが、彼が井辻朱美と永井陽子の影響を強く受けた、と聞き、そういや短歌ヴァーサスで井辻朱美の特集やってたなぁ、と思い出したのだ。それを買ってついでに角川短歌9月号の対談を立ち読みしだしたがつまらないのですぐ切り上げて、下の喫茶店でヴァーサスを読む。とりあえず大塚虎彦さんと荻原裕幸さんの文章を読んだ。現実からはぶっ飛んでいるがやっぱり井辻は面白そうである。この歌人は一応僕にとって当たりだな、という感じだ。

しずやかに雨の埋むる惑星になべての歌はますぐに立ちつつ       井辻朱美
三億年の歳月海を漕ぎいたる鮫の裸身のかなしき灰色            〃
たれかいまかすかにささやく青空の底の秘密を(あなたはゐない)      〃
テラノドンの助走のやうに飛行機が走りはじめるいとしき暴力        〃
ほんたうの空はそれほど高くない椰子がこすればあらわれる青        〃
雲の上には国境あらぬごうごうとまぶしき青のなかの椅子列         〃
きたる世も吹かれておらんコリオリの力にひずむ地球の風に         〃

ときおりだが井辻の描く非現実世界から現実世界に逆照射して来るものがある。だがそれは彼女が特別意識していないだろうと思われるのだ。

一方、吉岡太朗は

駅前の地下牢にある壁ひとつ青くてそれは海とよばれる         吉岡太朗
銀色の夕立のなかねむりいるアンドロイドの腕の水滴            〃
ゴミ箱に天子が丸ごと捨ててありはねとからだを分別しにいく        〃
さくらばな光子を帯びて剥き出しの配線を持つてのひらにふる        〃
たんぽぽの綿毛のように旅人はかなたの町で繁殖をする           〃
すぐ花を殺す左手 君なんて元からいないと先生はいう           〃
窓際の席の男もそうだろう街には無数の約束がある             〃
屋上に影を失くしたひと集う快晴のそらは海の代替             〃
新しい世界にいない君のためつくる六千万個の風鈴             〃
転送機で転送できない転送機 明日は今日より少しだけ夏          〃
以上、吉岡太朗「6千万個の風鈴」より。

短歌をはじめてまだ一年、二十歳の学生ということで、詰めの甘い表現が時おり散見されるが、井辻朱美の奔放な想像力のベクトルとチャンネルが合うところが確かにあり、それが彼の場合、井辻と違って現実世界への逆照射を無意識に狙っている節が感じられる。井辻もそれがないわけではないだろうが希薄だろう。もちろん短歌文体のクォリティは井辻の方が数段上だが、これは仕方がない。現時点でこれだけ書けてたら、こちらとしては相当期待してしまう。何より最近の若手歌人のフィクショナルな作りの中だけで完結している軽いのりの短歌と違って、自分と世界の異和を無意識にでもフィクションのなかに織り込み、粘土のある作品に仕上げている。短歌はこの現実とどうつながるか、がすべてだろうと思う。そのつなげ方には様々な方法があるわけで、こんな方法もあるわけだ。
言い直せば、井辻はこの広大な現実世界つまり地球というものに逆照射してくることがあるが、吉岡の場合は自身とこの世界との異和に逆照射してくるのだろう。吉岡の方が、自ずと短歌的私性に近くなる。それは昨日の歌会で加藤治郎さんが言われた、「アンドロイドの仮面を取ったあとの作者の暗い情動が見える。それは私性と言ってもいいのではないか。」とつながってくると思う。

もうひとつ批評会をやった。野樹かずみ歌集『路程記』批評会だ。もちろんこっちの方がメインである。

永遠の眠りを眠る始祖鳥の夢かもしれぬ世界に棲めり        野樹かずみ
心ならぬ者に口づけされるなら抵抗の悲鳴鋭く 笛よ          〃
水田のまなかに戦車うずくまりまるで生きもののようにさびしい     〃
どうしてか知らないけれど抱きあっていたから焼けた半身がある     〃
身の洞につみ重ねる闇抱きながら片手を上げて誰呼ぶ埴輪        〃
ほんとうの地平を見たい 真夜中の冷たい硝子に口紅をひく       〃
生涯の終わりに母が食べのこすマスクメロンの緑の半球         〃
両腕をひろげるようにふるさとは影をひろげてわれを迎える       〃
幼かりしわたしに性のしぐさなど教えし男も老い縮まりぬ        〃
いつの間におぼえし古謡ふるさとにいながら歌う望郷の歌        〃
あやまって薔薇の根砕きたる父がこれは薔薇ではないと言い張る     〃
それも遺品のひとつとなりし押捺の母の指紋が眠る引出し        〃
古生木の種子の一粒そのほかにどんな出自もあらざるものを       〃
人の性の快楽に溺れゆくを覚えわれの少女の悲鳴をも聞く        〃
快楽抗いがたくかつ性を憎む立ち裂かれてや花のさかりに        〃
せめて雨おだやかに降れのぞまざる愛撫にささくれだった地表に     〃
隠れ家の一つ欲しさにつく嘘と知りつつ君に愛を告げた         〃
歩道橋から地上に降りるゆうぐれの影ぎこちなく折れながらゆく     〃
風景の危うくゆれる町をゆく人それぞれの義眼のなかに         〃
唇のあわいにうすき剃刀の刃を見る何を言うつもりなの         〃
向日葵が地べたで腐るそれだけの景色になって夏が終わった       〃
汚れたるビニール紐が足首にからまるいたるところに国境        〃
踊るようにゴミと埃と喧騒のなかゆく少年らのゴム草履         〃
影みじかき昼さがりの子らが道ばたにしゃがんで犬の交尾を見ている    〃
こわれそうな小屋から子どもたちにぎやかな音符となってとびだしてくる  〃
ぬかるんだゴミかきわけてゆくどの子もくるぶしまでは汚泥につかり   〃
ぬかるみのなかのちいさな足あとの水たまりにも浮かぶ太陽       〃
この星にきみ生まれけり水の匂いさやかに立ち上がる秋の朝       〃
紅葉の山河と廃線の鉄路ここがこの世のきみのふるさと         〃
朝ごとにきみに発見されている世界に一羽の鳥降りてくる        〃

リポーターは僕と岩尾淳子さんだった。岩尾さんのほうがわかりやすかったと思うが、共通したことも感じ、僕なりに思ったこともあった。
作者の学生時代広島での在日韓国人被爆者の被爆体験の聞き書き、フィリピンのスモーキーマウンテンでの活動など、アンガージュマンへの強い情熱が短歌へと結びつき、自信の影と社会の影を重ねたその歌群には、強い私性とそれと対照的な圧倒的な社会性を感じた。最後加藤治郎さんが言われた、阿木津英以来絶えてきた女流短歌のもう一つの系譜がこれで復活すれば、という願いが非常に印象的だった。俵万智は女流短歌の新しい流れを創造したわけだけど、一方で従来の女流短歌のいい流れを遮断してもいたのかもしれない。
また今日読んだ短歌ヴァーサスで荻原さんの文章からもリンクしていて、女流短歌の系譜としてはどうも阿木津英、俵万智そして井辻朱美とあるらしいのだ。もっとあるのだろうけど僕の勉強不足でつかめていない。野樹かずみが阿木津英につながる系譜なのだとすれば、昨日の歌会は短歌史へも結びつく大変充実した会ということになり、出席できなかったメンバーにはただただ同情するだけである。以上。

あとCDショップ行ったこと書きたかったんだけど、どうでもいいので省略。
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コメント
この記事へのコメント
ここにはいまがはじめてです、
井辻朱美さんは、むしろ北村虻曳さんが彼女のファンなのです。
2007/08/27(月) 00:29:59 | URL | 堀本 吟 #-[ 編集]
吟さん、どうもご無沙汰してます。

そうでしたか、ご主人が。わかるようなわからないような。たしかに井辻朱美は面白そうです。でも歌集5冊もあるのでちょっと考えます。
2007/08/27(月) 19:31:05 | URL | hosomi #4DppGirI[ 編集]
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